証言集会:元731部隊 篠 塚 良 雄 さん(千葉)

元731部隊 人体実験の事実から学ぶ


証言者 元731部隊少年隊

      篠 塚 良 雄 さん

 

2008年9月14日(日)

10:30~12:30

岩手県奥州市水沢駅前メイプル

地下多目的ホール

 

主催/岩手県教職員組合胆江支部

後援/環境平和地区労センター
    いわて生活協同組合
    ㈱胆江日日新聞社
    撫順の奇蹟を受け継ぐ会:岩手



―――篠塚良雄さんの証言(要旨)―――

 篠塚良雄と申します。今日は、証言の機会を設けていただき、誠にありがとうございます。
 ここに平房の731部隊の写真があります。この建物は当時「7棟」「8棟」と呼ばれ、生体実験や生体解剖、細菌の実験に使う人たちを収容していました。収容されていた人は主に中国人ですが、この人たちは日本軍憲兵によって「特移扱い」(特別移送扱い)でここに送られ、生体実験の材料にされて殺害されたわけです。ここが(写真を示し)「7棟」の残骸ですが、1945(昭和20)年8月、敗戦がわかると731部隊の幹部隊員たちは、収容されていた人たちすべてを殺害し、さらに施設を爆破して埋め、あとかたもなくして日本に逃げ帰りました。戦後、中国政府によって掘り起こされ、復元されて現在の形になっています。
 731部隊の総務部長に川島という少将がいました。彼の証言(ハバロフスク軍事裁判)によれば、「7棟」「8棟」に収容していた人たち約3千名を生体実験などで殺害したということです。また1941(昭和16)年にハイラル実験場がつくられましたが、ここでも多くの人を殺害しています。
 731部隊の犯罪的特徴は、細菌や病原菌をつくり、中国各地にばらまいたことです。その犯罪行為については今、中国の多くの大学で「細菌兵器被害調査団」をつくり、細菌の汚染地帯にされた場所や殺害された人数などの実態を調査しています。
 ここは農場のあと地で、八木沢班が管理していました。農場とはいっても、農作物をつくるための農場ではありません。農作物ができなくするにはどうしたらよいか、ふつうの農場とはまったく逆の研究をしていました。私が聞いたことによると、この農場ではイナゴを集中的に育てていたといいます。このように八木沢班は、農作物にいろいろな害を与える研究をしていました。
 ここに飛行場があります。飛行機は管区外に行くためだけでなく、主に細菌をばらまくために使われました。この航空班の班長は、敗戦になるといち早く日本に逃げ帰り、自衛隊になる前の警察予備隊に入り、後には将官クラスの幹部になりました。日本の自衛隊にはそういうものたちがたくさんもぐりこんでいました。

 私が731部隊に入ったのは1939(昭和14)年です。千葉でもからっ風が吹いて非常に寒い時期でした。先ほど自衛隊に入ったと紹介した航空班の班長が、農学校とか実業学校の生徒を対象に隊員の募集に来たわけです。初めは卒業生だけを募集したようでしたが、あまり集まらなかったのか、「希望すればだれでも入れる。ただし試験だけは受けること」といわれていました。
 試験があるのでは私は合格できないだろうと思っていましたが、卒業生する先輩に私が世話になっている人がおり、その先輩から「試験だけでもいっしょに受けよう」と誘われ受けることにしました。試験は2月にありました。先輩につきあって受けただけで、どうせ合格するはずもないと思い私は試験を受けたことすらすっかり忘れていましたが、3月もだいぶ過ぎたころ、「4月1日に軍医学校防疫研究室に来い」という通知がとどきました。
 軍医学校防疫研究室は戸山町にあります。軍医学校の敷地は広く、私たちは防疫研究室を探しあてるにも右往左往してしまいました。通用門を入るとまず鉄筋コンクリート製の立派な建物があり、その入り口の事務棟を越すとさらに奥に鉄筋コンクリート二階建ての建物がありました。その建物には軍医学校の指令所とはまた別の指令所があり、左の方は工場になっています。防疫研究室の入り口にも指令所があり、守衛に話して連絡を取ってもらい、ようやく中に入れてもらいました。なかなかめんどうなことから、防疫研究室という所は何か特種な感じがしたのをおぼえています。
 私たちは、近くにあった「せいげん寺」の庫裏に寝とまりして防疫研究室に通うことになりました。防疫研究室で私たちは、勉強するわけでも仕事をするわけでもありません。あとから聞いたところによるとその期間は、私たちの身元調査がされていたということですが、くわしいことは私にはわかりません。
 防疫研究室で私たちは、石井式衛生濾水器の濾過管の検定をやっているのを見せてもらいました。石井式衛生濾水器というのは、兵隊たちが飲む水をきれいにする道具で、車載用、駄載用(馬による運搬用)、携帯用があります。濾水器のいちばん大事な部分は濾過管ですが、それを検定しているのを見ました。
 そんなふうにして過ごしていたある日、731部隊長の石井四郎が来たというので、私たちは講堂に集められました。当時の石井四郎の階級は大佐でしたが、あごヒゲをはやし、だぶだぶの長靴をはき、なんとなくだらーっとした感じで軍人には見えなかったことをおぼえています。
 石井四郎は壇にも上がらず、ジロジロ、ジロジロ私たちの顔色を見てまわりました。中に顔色の悪い人がいると、「もう一回身体検査をやり直せと」と副官に指示していました。やはり医者なんだなァ、とその時は思いましたが……。そのとき石井四郎は、「ハルピンは良いところだ。行く時期についてはあとから指示する。それまではとにかくうまいものを食べて東京見物でもしてろ」と私たちにいいました。それを聞いて、ものわかりの良い部隊長だなという印象を受けました。

 5月12日にハルピンに行きました。ハルピンには今はそう苦労しないで行けますが、私たちが行くときはまず汽車で下関まで行き、夜に関釜連絡線という船に乗ります。釜山まで行くのですが、難所といわれた玄界灘を通るときは船がはげしく揺れました。釜山に上陸すると今度は汽車です。私たちが乗ったのは当時の三等車で、ハルピンに着いたころには、顔も着ている物もまっ黒になっていました。
 ハルピンに着くと、吉林街のある建物に連れて行かれました。この建物は731部隊のハルピン連絡所で、周りには731部隊幹部隊員の宿舎が点在していたようです。私たちはそこで身分証明書を渡され、車に乗せられて平房に向かいました。ずーっと平原を走っていたのですが、平房に着くと突然、でかい建物が目に飛び込んできました。大きな鉄製の門があるものの、部隊を表示したものは何もありません。ただ、「関東軍司令官の許可無き者は何人といえども立ち入りを禁ず」と書かれた立て看板があるだけです。
 私たちが入隊したときはまだ宿舎ができておらず、私たちは現在でも残っている一番左側の「1棟」という建物に入りました。私たちの生活は、兵隊用語で内務班と言うのをつくってはじまりましたが、最初に、配属憲兵(731部隊に配属されている憲兵)から「軍機保護法」についての教育を受けました。配属憲兵は、「この地域は特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機でもこの上空を飛ぶことができない」ことを強調していました。後でわかったのですが、日本の飛行機でも731部隊の上空を飛ぶことができないというのは、「7棟」「8棟」があるからです。「7棟」「8棟」には生体実験に使う人たちが収容されており、天気の良いときはその人たちも中庭に出て散歩したりしていました。生体実験に使う人たちを監禁していることなど、日本人にも見せたくなかったのだろうと思います。「軍機保護法」の教育では、「見るな、聞くな、言うな――これが部隊の鉄則だ」と、私たちは強く教えられました。
 つぎに配属憲兵は「陸軍刑法」について説明し、「この部隊から逃げ出せば、敵前逃亡として処刑される」といいます。当時、日本の軍隊では、戦闘中にイヤだと逃げ出せば、敵前逃亡としてその場で処刑されることになっていました。日本の兵隊は勇敢で、どんな激戦でも逃げないといわれていましたが、兵隊たちの背後にはこの「陸軍刑法」があったわけです。
 731部隊の部隊長はもちろん軍医ですが、部隊にはほうぼうの大学から医学者といわれる人たちがたくさん来ていました。それなのになぜこの場所を秘密にしなくてはならないのだろうと、当時、私は疑問に思いました。しかし、内務班で生活しているうちにそれもだんだんわかってきました。「7棟」「8棟」が完成した6月の末ころだったと思います。夜の夜中、靴音をはじめ鎖をするような音がしてにわかに騒々しくなりました。何事かと思って出ようとすると、「マルタの運搬だ。出るな!」といいます。私はそのとき初めて、「マルタ」という言葉をききました。
 「マルタ」というのは、ここに監禁され、やがて生体実験、生体解剖される人たちのことです。私もあとで生体実験などにかかわるようになったのですが、隊員たちが夜おそく風呂に入りながら、「今日おまえンとこで何本倒した」「おれンとこ3本だよ」「おれンとこ2本だよ」と、まるで丸太のようないい方をするのをききました。人間の命を奪うのに……材木の丸太を倒したような感覚で……「何本倒した?」と……。731部隊の中で私たちは、人間としての感覚をなくしていたのだろうと思います。人間としての感覚があれば、こんな仕事はとてもできません。
 私たち少年隊の教育はそのようにしてはじまったのですが、「防疫給水部は第一線部隊に跟随(こんずい)し、主として浄水を補給し、直接戦力の保持増進を図り、併せて防疫防毒を実施するを任務とする」――関東軍防疫給水部の任務だけはよくおぼえておけ、と教えられました。その後、ハルビン市内の陸軍病院のとなりにあった後に「第三部」と呼ばれる場所で、石井式衛生濾水器の操作を教わりました。防疫給水部はたしかに兵隊に飲ませる水を濾水器で濾(こ)す仕事をしますが、それは表看板にすぎません。濾水器で水を濾すのも細菌戦のためです。細菌をばらまけば、その細菌で日本軍兵士が病気にならないとはかぎりません。日本軍の兵士が細菌に感染しないようにするため、水をきれいにする濾水器が必要なわけです。
 濾水器の濾過管は、珪藻土(けいそうど)という土に、でん粉をまぜて焼いたものです。でん粉の粒子は細かいので、焼くと細菌を通さない細かい穴ができます。私たちは最初、その濾過管の通し試験をしました。濾過管に空気を入れ、穴から出る泡の大きさを見ます。大きな泡が出るものは排除し、細かい泡の出る濾過管だけを残すのですが、こうした検定をやりました。
 しかし石井式衛生濾水器は、それほどすぐれた物ではなかったようです。濾水器では、毒物を除去することができません。ですから、関連して毒物の検査をしました。その検査で使うのは石井式毒物検知器というものです。この毒部検知器で本当に毒物を検知できたのかどうか、私は今でもよくわかりません。PH(ペーハー)、アルカリ性か酸性かを調べるのは簡単にできるわけですが、この毒物検知器は、それにちょっと手を加えた程度のものではなかったかと思います。
 私たちがつぎに本腰を入れて教えられたのは細菌のことです。最初はクレゾール何パーセント、ホルマリン何パーセント、石炭酸は何パーセントと、消毒方法を実習させられました。消毒方法をみっちり身につけなければ、命はいくらあっても足らないと……。実際、少年隊員の中にも、入隊して間もなく細菌に感染して死んだ人が少なからずいます。そのようにして細菌の教育がはじまり、ほうぼうの研究室でいろいろなことを実習させられました。
 
 1939年(昭和14年)7月、731部隊が「ノモンハン事件」で動き出しました。ノモンハンに濾水器を運ぶために、私たちはその積み込みを手伝わせられました。それと同時に731部隊では、細菌の大量生産がはじまりました。私はまだ教育課程中でしたが、大量の細菌をつくる基になる細菌を取りに行く仕事を命ぜられました。細菌の基が入った試験管は金属製のカゴに入っていましたが、取りに行く班によってその班がどんな細菌をつくっているかがわかりました。班によって、つくっている細菌がそれぞれちがうわけです。
 細菌製造の基になる細菌は、無菌室に運びます。無菌室には、寒天(カンテン)やブイヨンを混ぜた培養基、つまり細菌を繁殖させるための下地ができており、それらはチェーンの特殊なコンベアーでつながっています。その培養基に細菌の基を植えつけるのですが、まず「綿棒」という長さ50センチほどの金属製の棒の先端にある脱脂綿に細菌の基をつけ、それで培養基にすぱやくぬります。細菌は一定の暗さと温度があればどんどん繁殖するわけですが、24時間くらいで、カンテン培養基の上に白いどろりとした細菌の集落(コロニー)ができました。細菌はわずか10グラムでも何万という数になりますから、肉眼でみえるほどのコロニーに増殖すれば何臆もの細菌になるわけです。
 こうして繁殖させた細菌が「ノモンハン事件」で使われました。少年隊員にも車を運転できるものがいて、彼らの手によって、細菌はホロンバイル平原を流れるハルハ河に流されました。その結果、「ノモンハン事件」が終結して帰るころになると、日本兵にもたくさんのパラチフス患者がでています。おそらくソ連とかモンゴルの兵隊たちにも患者が出たと思いますが、そうした情報は私たちに入りませんでした。
 私たちはノミの養殖をしたこともあります。木製の棚に、いくつもの石油缶が並べて置いてありました。石油缶の中には殻のついたままの小麦と、ペスト菌に感染させたネズミが入った小さなカゴが置かれています。私たちが命ぜられたのは一日一回この石油缶を見回り、死んだネズミがいたら生きたネズミに取り替えるという仕事でした。ペスト菌を持ったネズミの血をどんどん吸わせて、ノミを繁殖させるわけです。この仕事は交替でやらされましたが、非常に暑くてとても苦しい仕事でした。
 ノミをどのようにして取り出すかといいますと、西洋風呂といっていた陶磁器製の浴槽を使います。浴槽の片側に殻のついた小麦ごとノミをあけ、赤い電気をつけます。するとノミは暗い方へ暗い方へと逃げる習性があるので、浴槽の開かない暗いほうに集まり、浴槽の底にある穴から下に置いた大きなガラスシリンダーに落ち団子状になります。こうしたノミは最初、「寧波(ネイハ)作戦」(1940年5月~6月の細菌戦)で使われました。寧波でばらまかれたわけです。ノミの増殖に私は何回も参加したわけではありません。これが最初で最後だったと思います。
 細菌の大量生産との関係で私たちは、生体実験もさせられました。培養だけをくり返していると細菌はだんだん毒性がなくなってきます。毒性のない細菌では細菌戦の役にたちません。731部隊では毒性の強い細菌をつくるために、まず人間の体にワクチンを注射しました。体に免疫ができたころを見計らって今度は細菌を注射します。それでその人が発病すれば、自分たちのつくった細菌がワクチンに打ち勝ったことになります。生体実験に使われた人が発病すれば、私たちは喜んで祝杯をあげました。こうした生体実験を私も何回か……くり返し……その結果を喜ぶような人間になっていました。
 発病した人は生体解剖されます。生体解剖になれたものたちは、自分の目的とする臓器を切り刻んでそれを細菌培養基にぬりつけました。人間の心があればとてもできないことで……。
 このようにして培養された猛毒細菌は、中国各地で使われました。寧波(ネイハ)をはじめ、南の方では常徳(ジョウトク)でも使われています。中国では、日本軍の細菌で各地が汚染されたことから、その防疫のために長い間たいへんな財力と人力を費やしてきました。
 私はつい最近、常徳に行きましたが、常徳の大学でも蔓延する伝染病を予防するために取り組んでいます。細菌の被害は何年たってもなくなりません。私たちはこんなひどいことをやってきたわけです。いろいろな細菌に感染させ……。私は、これから生体解剖する人の体を……デッキブラシで洗ったり……そういうことを私自身……だんだん人間性を失う中でやってきました。

 天気の良いある日、私たちが屋上で休憩していると、「おい、子供がいるぞ」とだれかの声がしました。見ると、中庭を散歩している「マルタ」の人たちの中に子供がいます。「マルタ」の中にどうして子供がいるのだろうと、その後も私はずうっと気になってしかたありませんでした。戦後になってから、731部隊員だったある人に、「施設を爆破するときあの子どもはどうした?」とたずねました。まさか子供は殺さないだろうと思ったからです。ところが、その人がいうには、子供も殺して骨にして小学校に捨てたと……。「7棟」「8棟」に監禁していた人たちを、ひとり残らず殺害したと……。
 ハルピンの平房にいま罪証陳列館というのがあります。その一階の慰霊室では、このようにして殺害された人たちを慰霊しています。去年(07年)の11月、私は永平寺をはじめとする住職さんたちといっしょに訪問し、慰霊してきました。被害を受けた人たちのことを私は、けっして忘れることができません。

 1945(昭和20)年、敗戦が迫っていたころ、私は125師団軍医部に転属になりました。私といっしょに731部隊でペスト班の班長だった人も転属になり、125師団では軍医部長代理になりました。敗戦がわかると彼はすぐ日本に逃げ帰ったにもかかわらず、私には「もし捕虜になったらこれを飲め」と、毒薬を渡していったのです。日本政府は、敗戦とほぼ同時に731部隊の幹部隊員たちを帰国させながら、満蒙開拓青少年義勇軍や開拓団の人たちを完全に見捨てました。731部隊の幹部隊員たちを帰国させたのは、極悪非道な戦争犯罪の発覚を恐れたからです。そうした戦争犯罪を闇から闇に葬ること――それが日本政府の考えだったろうと思います。

 「満州」で日本の敗戦が明らかになった8月17日、私は125師団の参謀長に呼ばれました。その参謀長は、かつて戦車部隊の部隊長として中国を荒らしまわっていた人ですが、その後「通化事件」の首謀者になります。その参謀長から誘われ、私も「通化事件」に参加することになり、翌1946(昭和21)年2月3日、この日は旧正月の元日にあたりますが、私たちは通化の竜泉街にある竜泉ホテルを占拠しました。ホテルを占拠した私たちは、来ることになっていた援軍を朝まで待っていたのですが、援軍は来ません。代わりに、私たちは中国の解放軍に包囲されており、熱病にかかって意識がなくなった私は解放軍に逮捕されてしまいました。あとで解放軍の人から「おまえはマーキュロを注射から治ったんだよ」といわれましたが、本当にあの赤いマーキュロを注射して治ったのかどうかは分かりませんが、気がついたときはもう9月でした。日本人はもうみんな帰国したというし、私はどうしようかと迷いましたが、中国の人たちに助けられたこともあり私は解放軍に入ることにしました。
 解放軍に行くと、「おまえは何ができる」ときくので、「機関銃の分解ができる」と私は答えました。以前、機関銃の中隊にもいたことがあったのです。「じゃあ、これをやれ」と私は、日本軍が捨てていった機関銃を分解掃除し、使えるようにする仕事を命じられました。仕事ですから私は夢中で仕事をしていましたが、解放軍のパンジャン(班長)はいつも、「そんな急がなくてもいいんだよ」といってくれました。ほんとうに、人間としてあつかってもらったことを思い出します。
 当時、中国には文字を書けない人がたくさんいました。それもしかたありません。農民や労働者たちの多くは、勉強する機会などなかったのです。文字を知っているのはほんの一部、地主や金持ちの息子ぐらいでした。そうした事情からできたのが、識字班です。識字班では、文字を知っている人は知らない人に教えるという役割をにないました。まず文字をおぼえて文化水準を高め、強大な解放軍を建設しようというわけです。「おまえはいろんなことを知っていて、おれたち以上だ」といわれ、私も識字班で文字を教える役につくようになりました。
 識字班にいるあいだ私は、サルから人間へ、労働から搾取へなど社会発展史の勉強をしました。原始共産制からはじまり、封建社会での反封建、反植民地などについて、戦時中の日本では学べるわけもありません。そんな生活を過ごしているうち、私もだんだん中国語を話せるようになりました。いま中国に行って話をしますと、「あんたのは中国の東北弁だよ」といわれるのはそのためです。中国の東北地方でも、年輩の方がたには私の言葉も通じるようです。
 そうした生活を送っていたときも私は、意識的に日本人と顔を会わせないようにしてきました。もし日本人に会い、731部隊にいたという私の前歴がばれたら、まちがいなく処刑にされるだろうと思ったからです。ところがある日、私は、中国の医学を学ぶ学校に入るよう命じられました。これは困ったことになったと本当に心配しましたが、断ることはできません。しかたなく私は医学の講習所に通いはじめました。
 そこで何年か学んだあとの1953年(昭和28年)、今度は天津の軍医大学に行けということです。天津の軍医大学には、かつて満州医大の教授だった日本人医学者がたくさんいました。その中でも私がよく知っているのは稗田(ひえだ)さんで、病理学の教授だった人です。その稗田さんから、「731部隊のことは全部明らかになっている。悪あがきしてもダメだ。もう観念したほうがいいよ」といわれました。それで元731部隊の少年隊だったことを発表したことから私は、日本人戦犯管理所に送られることになったわけです。元731部隊の隊員だった人は解放軍の中にだいぶいましたが、その全員が撫順戦犯管理所に送られたわけではありません。戦犯に該当する私や榊原、秦などが撫順に送られただけで、ほかの人たちはみんな日本に帰してもらいました。

 私が行ったころは、撫順戦犯管理所もだいぶ落ち着いていました。朝鮮戦争が終結し、ハルビンに疎開していた戦犯たちも撫順にもどっており、戦犯管理所内ではいろいろな勉強会が開かれた時期です。私は「おまえが当番をやれ」といわれ、将官クラスの世話係をすることになりました。バレーボールとかバスケットなどをやったり、また若い人たちといっしょに走ったりもしました。撫順戦犯管理所ではもう将官クラスまでが変わりはじめていた時期で、私もここでは多くのことを学べたと思います。
 撫順戦犯管理所は、かつて日本軍が村ごと虐殺した「平頂山事件」の近くにあります。「平頂山事件」について私は、戦犯管理所に行ってから初めてくわしく知ったといえます。
 戦犯管理所に行ってしばらくたったある日、「私たちの銃はあんたたちに向けているではなく、外に向けているのが分かるか」と私は、警備の人からきかれました。日本軍によって平頂山は村ぐるみ虐殺されたのですから、中国の人たちの日本人戦犯に対する憎しみは非常に大きいわけです。ですから撫順戦犯管理所の警備の人たちは、私たち日本人戦犯が中国の人たちに襲われないよう、銃はいつも外に向けていました。私は、この警備員の言葉が今でも身にしみています。
 いま撫順戦犯管理所にいる当時の先生は、崔さんだけになりました。2000(平成12)年、その撫順戦犯管理所開設50周年記念に、かつてそこに監禁されていた日本人戦犯の私たちが招待された。式典には私たちを指導してくれた指導員や関係者が中国各地からみんな集まり、当時の話ではずみました。かつてそこに監禁されていた戦犯と、戦犯たちを監禁していた人が友人として親しく昔話をしている……こんなことはふつう考えられないことで、その光景を見ていた多くのジャーナリストのみなさんには「奇蹟」と映ったのかもしれません。そんなことから「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」というのができました。
 今度は、ここ岩手でも「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」岩手支部をつくって下さったとうかがいました。私たちは感謝、感激でございます。(拍手)

                         【文責 花烏賊 康 繁】