支部会員が読んだ本の紹介

岩手支部の会員が読んだオススメの本を紹介しています。

 

<オススメ本の一覧>

 

・「灼熱の迷宮から」       中野重平・佐藤龍一  2011.02.14 UP

・「なぜ加害を語るのか」     熊谷伸一郎      2010.12.30 UP

・「国に棄てられるということ」  小川津根子・石井小夜子2010.12.30 UP

・『「中国問題」の内幕』        清水 美和   2010.12.25 UP

・「歴史からかくされた朝鮮人満州開拓団と義勇軍」 陣野守正 2010.12.25 UP

・「ラストエンペラーと近代中国」    菊池 秀明   2010.12.25 UP

・「中国残留邦人」           井出 孫六   2010.12.20 UP

・「我的中国」               リービ英雄   2010.12.20 UP

・「イ−ハ−ト−ブと満州国」       宮下 隆二   2010.12.19 UP

・「ハルピンからの手紙 日本は中国でなにをしたか3」

                    早乙女勝元編  2010.12.19 UP

・「中学生の満州敗戦日記」       今井 和也著

・「大連と中国・東北歴史散歩」

・「観光コースでない満州」

・「中国東北地方を訪ねて」

 

 

「灼熱の迷宮から ーミンドロ島から奇蹟の生還、元日本兵が語る平和への夢ー」
中野重平、佐藤竜一 (株)熊谷印刷出版部 定価1,300円
ISBN4-87720-282-X

5年も前に発行された本ですが、戦争愚かさと人間の生き方を伝える貴重な本だと思い皆さんに紹介したいと思いました。

 

内容

第一章 ミンドロ島上陸
第二章 逃亡から自活へ
第三章 日本への帰還

中野さんは岩手県軽米町出身、フィリッピン・マニラで特攻隊員となるも、特攻機が破壊され生き残る。
その後、決死の覚悟でミンドロ島へ、そこで目の当たりにした戦場の恐怖と人間の愚かさ。
ミンドロ島での共同生活、マギャン族との交際、敗戦を知り日本へ13年ぶりの帰還、あきらめないことの大切さ。
佐藤竜一さんが聞き語りで書いています。

まだ読んでいない人に是非読んで欲しいと思い推薦いたします。

 

「なぜ加害を語るのか」

熊谷伸一郎 岩波書店 480円

 

 著者は「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の事務局長です。
 この本では、中帰連(中国帰還者連盟)の活動の歴史がコンパクトに紹介されています。

 

 釈放された戦犯たちが帰国したとき、それぞれの故郷に向かう前に話し合いをもち、それが「舞鶴協定」にまとめられたそうです。その第2項に「後半生は、間違って歩いた前半生と決別し、戦犯管理所の生活の中で体験した人道的扱いと。中国の平和政策を日本国民に告げ、日中友好を実現させるために力を合わせて努力すること」という決意が込められていました。

  

しかし、帰国後たえず警察に監視され、さらに河北新報で「中共引揚者、日本式風呂に身体のアカは流したが、心のアカまで流せたか。これからが問題」と書かれたように社会的偏見は続いたのでした。

 

それでも、中帰連が結成されて、加害の証言や、加害記録が出版される活動が続きました。そして、1965年には中帰連の第一回訪中団として初代会長の藤田さんらが中国を訪れたとき、当初の予定にはなかった周恩来との会見が行われました。藤田さんは1980年に亡くなりますが、棺の中で藤田さんの遺体は周恩来から贈られた中山服を身につけていたそうです。管理所の所長や所員も日本にも招かれて涙の再会もありました。

 

戦犯個々の加害の内容は比較的押さえ気味に書かれていますが、それでも衝撃的な加害の事実に息をのみました。さらに、中国の文化大革命時の中国共産党と日本共産党の対立があったとき、中帰連が分裂した時代があったことを知りました。しかし結局、再び一つにまとまって活動し、現在の奇蹟を受け継ぐ会に引き継がれてゆくのです。

 

「国に棄てられるということ」

小川津根子・石井小夜子 岩波書店 480円

 

 「なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのか」との思いから、国家賠償請求を戦っている3人の帰国した中国残留婦人が紹介されています。

  

 「未帰還者特別措置法」について、7年間連絡の途絶えた残留邦人は戦時死亡宣告制度により戸籍から抹消されたことは前にも紹介しました。実はさらにこんな目にもあっていたのです。それは、中国に残留して生存が明らかになっている人については「自己の意志により帰還しないものと認められる者」の判定が強引に進められ、本人の意思も確かめないまま、本人の知らないところで、多くの人が「未帰還者」からはずされたのです。

 

 さらに、法務省は、「日本国民は自己の志望によって外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」という条項で、中国人と結婚した中国残留邦人を原則として外国人扱いしたのです。そのため一時帰国する場合でも、中国残留婦人は身元引受者が必要になって一層帰国しにくくなったのです。一体、すすんで中国国籍をとった日本人がいたでしょか。やむにやまれず結婚し、子供や家庭のために中国籍を取らざるをえなかったのに、国はそれを自由意志とみなして日本国籍を剥奪したのです。

こうして国は「戦時死亡宣告」と「自己意志残留」=自己責任というかたちで中国残留問題を処理済みとしてしまったのです。

 

中国に残留した婦人は、夫と子供を残して日本に帰る訳にはいきませんでした。また日本人を妻にした中国人も共産党に入党できないため出世もできませんでした、さらに、文化大革命のときは、子供たちも「日本鬼子」としていじめられたのです。このように、国に置き去りにされ忘れさられたひとりひとりの残留婦人たちが、国が行った侵略や加害の責任を押しつけられ、重い罪を背負わされたのです。

  

西田さんは買い物をしているとき、「中国残留孤児でも恥ずかしく思わないで、立派に生きていけばいいんですよ」と声をかけられたそうです。「なぜ私が恥ずかしがらなくてはいけないのか」西田さんは怒ります、「国の責任ではないか」と。

  

また、血の通わない制度があります。例えば、中国に里帰りすると「資力がある」と判定されて生活保護費が削られたり、うち切られたりするのだそうです。さらに、生活保護を受けていると、子供を呼び寄せて一緒に生活ができないことや、年金がでるとその分生活保護費が削られるとのこと。中国残留邦人に対する「鬼国家」「鬼日本」のする仕打ちは極悪非道としかいえません。

 

鈴木さんは学校で「満州は日本と兄弟の国、天皇陛下は満州国皇帝のお兄さん、だから天皇陛下のため、東洋平和のため満州国の建設にしっかり励まなければなりません」と教育されたそうです。

また、中国人側の悲劇としては、中国人は「労工」として日本軍の強制労働にかりだされました。軍の関係なら仕事が終わると秘密を守るために殺され、そうでなくとも虐待や過酷な重労働で無事に帰れた人は少なかったそうです。

 

ソ連軍による虐殺、集団自決、飢餓と病気、親が子を殺し、みんなバタバタ死んでいきます。「死ぬ前にみんな言うんですね。なんで自分たちはこんな目に遭わなければならないのか。関東軍はどこに行ってしまったのか。日本に帰ったらこの運命を伝えてくれって」。

鈴木さんは決意します。「わたしたちはお国のため、天皇陛下のために満州まで来て、なんでこんな目にあわなきゃならないんだって。ここまで生きてきたのだから、何とかして生きて帰って、遺族にも国にも報告しなくちゃという気持ちでいっぱいになった」と。

 

「私たちの戦後はおわっていません」との悲痛な叫びがいつまでも耳に残るのです。

 

「中国問題」の内幕 

清水美和 筑摩書房 740

 

経済成長などの面で、東アジアの主力は日本から中国に主役が移りました。しかし、人口の7割を占める農村住民・都市貧困層に対する医療や保険は貧困で、「格差は世界最大」と中国のシンクタンクも認めています。2005年に起きたデモや騒乱などの集団事件は8万7千件に達し、豊かな人の豊かさと貧しい人の貧しさも想像を絶するという極端な格差社会となっているのです。この中国問題は21世紀最大の難問となりつつあるのです。

  

日本と中国の間に横たわる「歴史問題」。この、のどにささったままの棘をどうするのか。中国は、靖国問題をはじめ日本の発言を注意深く分析し、それに対して神経質なほどに対応を変えているのです。江沢民前主席はたえず「日本軍国主義の罪業」を忘れるなと強調し、戦争問題を日本に突き付けろという指導を行ってきたそうです。そして小泉純一郎や安倍晋三などの一挙手一動を観察してきているのです。

 

ここで注目すべき動きがあります。それは、1972年の日中国交回復の際の日中共同声明にあった「中国政府は戦後賠償請求を放棄する」について、これまで民間の部分は放棄していないという解釈もあったのですが、2007年、最高裁は個人の賠償請求も放棄したとみなす判決を示したのです。それにより、以後は、民間の賠償請求は勝てる見込みがなくなってきたのです。

 

そして、最近は台湾問題が重要になっています。中国は一貫して台湾の独立は認めない立場であり。あくまで一つの中国に合体するという究極の目的があります。しかし、最近のチベット動乱をみるように、現在の北京五輪は世論を集めるためには絶好の機会になっています。そこで、台湾は独立宣言を北京五輪開会式にぶつけるのではという観測も一部にあり、その時、中国は開会式をキャンセルしてまでも、全力で台湾攻撃に向かうはずであると・・。

 

この本を読むと、現代中国は江沢民とそれに対する胡錦涛・温家宝らとの権力闘争を軸に動いてきたことがよくわかります。まさにドロドロした弱肉強食の世界があることを知らされるのです。頭が混乱するほど、相手陣営を引きずりおろしてた歴史のオンパレ−ドです。「水におちたイヌはたたけ」とは中国の諺です。

 

そこには利権階級である共産党幹部の保身があります。共産党員になるためには厳しい審査を受けなければならず、中国社会ではそれが立身出世を果たす条件なのですが、幹部になると様々な利権を牛耳ることができるようになるのですから。さらに、中国共産党幹部の2世は「太子党」とよばれていて幹部の特権を享受して育ち、例えば江沢民の長男も多くの投資会社を経営しているそうです。

 

土地の使用権の有償払い下げが認められるようになると、住民を追い立てる再開発事業は業者だけでなく地方政府にとっても「カネのなる木」として莫大な利益を生むようになってきたのです。国有企業幹部が企業改革の名目で企業を私有化することも多くなってきています。私腹を肥やす富裕層、党幹部。それに対して農民の生活は悲惨なのです。

 

農村に住む人々は農業戸籍として、都市に暮らす人々「非農業(都市)戸籍と厳格に区別=差別されています。農業戸籍の人は大学に合格して優秀な成績をおさめて都市の国家機関や国有企業に配属された場合を除き、都市戸籍に編入できません。都市戸籍がないと、都市住民に認められる食料の配給、医療保障、住宅の配分、公教育、養老年金などの社会権利を受けることはできないのです。農業戸籍の人は全くその権利を受けることがないのです。また、開発業者に土地を追われた農民は「失地農民」として10年後には1億人になる見込みであるとのことです。

 

農民の出稼ぎは認められるようになったものの差別され続け、3Kの仕事にしかつけず、住む場所もスラム化し、子供達も公教育から閉め出されているのです。中国には奴隷制が存在するかのようであり、中国国内に農村という「植民地」をかかえていると著者は書いています。私たちが味わってきた饗宴に欠かせない若い娘達は農村出身なのです。使い捨ての・・・・

 

特殊利益集団である党幹部。人民の代表と称する国家機関がこのような特権階級で占められ、そしてその権益を手放さないのです。農民を中心とした暴動はたえず鎮圧され続け、その正確なことは報道されなままなのです。

 

病める大国中国。共産党独裁の下で野党は存在せず、一元的な愛国主義教育とマスコミ統制は依然として緩和されていないままです。

 

中国と日本が本当の友人としておつきあいができるのはいつのことなのでしょうか。

 

「歴史からかくされた朝鮮人満州開拓団と義勇軍」

陣野守正 (梨の木舎 1998年)

 

この本で、日韓併合により皇民化政策の支配下におかれていた数多くの朝鮮人が関東軍主導のもと朝鮮総督府(実質は日本政府)により、第2の日本人として満州に送り込まれたことを、知ることができました。

  

実は、朝鮮人の満州移住の歴史は1860年代からはじまっていたのです。朝鮮北部での水害や不作、政治の暴政と過酷な収奪を逃れて満州に渡り、密かに開墾定住したのがはじまりで、1885年には清も朝鮮人による開拓を奨励するようになりました。朝鮮人農民は水稲耕作の天才といわれていました。水田の開田技術や稲作技術を満州に持ち込み、稲作の先導的な役割を果たし、畑作中心だった中国農民と共存共栄する時代が続いたのです。

 

1910年の日韓併合によりさらに満州に脱出する朝鮮人が増えたことに加え、前述の朝鮮総督府により、集団移民が開始されたのです。満州国の成立とともに、関東軍は朝鮮人移民に対しても、ソ連国境での国防の役割を日本人と同様に押しつけるようになったのです。また、日本人が入植しない条件の悪い土地を、朝鮮人は集団開拓地として押しつけられたのです。

 

また、抗日運動に参加した人々を匪賊と呼び、その対応に手を焼いた関東軍は、散在していた中国人や朝鮮人農家を土塁で囲んだ集落に強制的に移住させ、匪賊との分断を図りました。集団部落といわれるものです。あまりにも狭い所に押し込まれたため、耕作地も家畜の数も限られ、病気が流行したりして、悲惨な境遇に追いやられました。

 

さらに、日本人の満蒙開拓団の入植によって事態は激変しました。東宮方式により、朝鮮人が開拓した水田はわずかな立ち退き料を渡されただけで、日本人に強制的に取り上げられて追放されることになったのです。その当時、満州の水田の9割は朝鮮人が開いたものでしたが、すべて日本人のものになり、朝鮮人は奥地や未開墾地に追いやられるか、あるいは日本人の小作農になるしかありませんでした。

 

当時の証言では、日本人の開拓村ではなかなか自給自足ができなかったのにくらべ、朝鮮人の村ではきちんと自活していたという差があったそうです。また、日本人は朝鮮人との共学を嫌っていたということです。というのは、小中学校では成績の1位から3位までを朝鮮人が占めることが多かったためでした。

 

しかし、朝鮮人は、中国人からは日本人の手先・日本帝国主義の手先とみなされて苦労しました。日本人は「日本鬼子」、朝鮮人は二番手だから「二鬼子」と呼ばれたのです。また、賃金が高いという理由で日本に渡る朝鮮人も多くかったのですが、はじめは「募集」という形で始まりましたが、終戦末期には「強制連行」として日本に連れてこられた人たちは炭鉱などで重労働をさせられたのでした。さらに、日本軍に徴用された数十万人の台湾人。朝鮮人が日本人兵として死んでいきました。

 

1998年当時の中川昭一農水相は従軍慰安婦問題にふれ「ないともあるともはっきりしたことが言えない」と発言していますが、姉が日本軍隊により慰安婦として連行されたため、満州で抗日軍に身を投じようと考えている朝鮮人移民がいたというはっきりとした事実があります。

 

日本敗戦時、満州にいた朝鮮人は112万人が残留し、104万が帰国しました。そのうち朝鮮総督府に送り込まれた朝鮮人の数は正確には分かっていません。

1947年、中国政府の「中国土地法大綱」により、朝鮮人にも土地が与えられ所有権が認められることになったので、帰国しないで定着する人が多かったのです。ただ、息子を日本軍に徴発された母が「ここを動いたら、あの子が帰るところがなくなる」といって帰国せず、いつまでも待ち続けながらついに亡くなったという話も残っています(涙・・)

 

 「祖国朝鮮からわずかな家財道具を携え、追われるように満州に移住した土地なき朝鮮人農民たち、現地では中国人と日本人のはざまで、さまざまな心労と犠牲を重ねながら、貧困のなか、たび重なる自然災害、動乱、迫害を命がけで切り抜き、満州稲作の先駆者としてその発展に寄与した朝鮮人農民たちは、日本敗戦後中国農民と平等に土地を解放されかつ中国の一員として、民族的伝統、文化を保持して、中国の大地に新しい出発を歩み出したのです」と結んでいます。

 

中国の歴史第10巻「ラストエンペラ−と近代中国」

講談社 2600円

 430ペ−ジの分厚い本です。1940年の第一次アヘン戦争後の太平天国の蜂起に始まり、日中戦争勃発までの歴史が詳述されています。

 日本の近代といえば明治の文明開化というイメ−ジになりますが、中国の近代というとき、常に重苦しくネガティブなイメ−ジがつきまといます。それは、たび重なる外国からの侵略をうけ国と民族が存亡の危機に立たされた屈辱の歴史であり、侵略に対する抵抗の歴史でもあり、革命運動と弾圧、内乱、内戦が延々と続いた時代だったのです。

 広大な中国は南北で全く異なる社会ですが、清末期まではたえず北の民族が王朝を支配していました。清を建国した満州族に追われた漢民族は南に逃亡せざるをえませんでしたが、この時代になって辛亥革命、国民革命そして中国共産党へいたる革命運動はいずれも南の大地から沸きあがり、北にむかって(北伐)展開したのです。

 まず、太平天国から。
 洪秀全の誤解すれすれのキリスト教受容による太平天国運動は1850年に始まりました。「田があればみんなで耕し、食べ物があればみんなで食う」「どこの人もみな均等にし、一人残らず暖かな服と腹一杯の飯を得られるようにする」という中国古来の「大同」というユ−トピア思想の実現を目指したものでした。1864年に太平天国は滅亡しますが、のちに中国共産党は太平天国を自分たちの先駆者として位置づけ、封建的な土地制度を否定した革命的な綱領であると評価しています。

 注目すべきは、10にまとめられていた太平軍の規律です。
「右足を民家に入れた者は、右足を切る」という厳罰主義で、民衆を殺したり、略奪や放火の禁止、民家への進入を禁止していました。中国共産党軍の三大紀律、八項注意とよく似た規律が先駆的に存在していたのは注目に値します。それに対する清王朝軍の規律の乱れは酷いものだったそうです。
また、満州人によってつくられた清王朝の打倒のため、弁髪を止めたり纏足の禁止や共同生活などが行われたそうです。
 
ここまでの紹介で本文の10分の1にしかなりません。

 これに続いて、第二次アヘン戦争、清仏戦争、日清戦争に敗れ続け、義和団事件、孫文の連戦連敗の革命運動、中華民国の成立、日本の二十一条要求、五.四運動、中国共産党の結成、中国共産党と国民党の死闘、国共合作そして対立・内戦の繰り返し、満州事変、張作霖の子張学良による蒋介石と周恩来の会談を実現させた西安事件までの通史がまとめられています。
度重なる外国との屈辱的な条約、それに反対する孫文や数多くの革命の志士たちの絶えざる蜂起と弾圧、あの広い中国全土が染まるくらいのおびただしい血が流され、多くの人々が地に横たわったのです。また、日本でもおなじみの文学者魯迅の活動もよく分かります。

 明治初期に、日本に学んだ中国人留学生は「日本の明治維新に学べ」という意識を持って中国に帰りました。日本に対する親近感は強かったのですが、日清戦争あたりから、多くの日本人は他民族への差別意識を無自覚に抱え込むようになり、中国を差別的に見下すようになった日本は憎悪の対象になっていったのです。のでした。留学生は、日本が嫌いになって帰国するようになっていったのです。
ここの部分で約300ペ−ジあります。濃密な歴史で、とてもとても全部を紹介しきれるものではありません。
 
 それで、印象に残ったエピソ−ドを二、三紹介します。

・満州国で、満州人の「日本はどこに王道楽土を建設するつもりなのですか。満人がいなくて建設できますか」という言葉に、満州の駒井総務庁長官は「君らは満州の歴史を知っとるのか!満州は日本人が血とひきかえに取ったものだ。ロシア人の手から奪い返したものなんだ。」と血相をかえて怒ったそうです。
・1938年からの日本人捕虜の鹿地亘は反戦運動を始め、「侵略された側に立って考える」ことを根気よく訴えていたそうです。1940年には日本人反戦同盟本部をつくり、前線で日本兵士にメガホンで語りかけたのです。八路軍は捕虜に危害を加えず、負傷者の治療を行う、希望者には仕事や勉学の機会を与えることなどの捕虜政策を推し進めていることを。
 その反戦兵士の宣伝活動は日本軍に知れわたり、終戦までに保護された日本兵は2500名を超えたとのこと。日本軍は「焼きつくし。殺しつくし、奪いつくし」という三光作戦をとっていたのですが。

・蒋介石は1945年8月15日重慶からラジオ放送を行いました。彼は「汝の敵を愛せよ」というキリストの言葉に無限の感慨を覚えると述べたうえで、およそ次のように語ったそうです。「われわれは報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。もし暴行をもって敵国の暴行にこたえるなら、憎しみは憎しみを生み、永遠に終わることはない」と。1945年の敗戦で挫折した日本の近代化とは異なる「近代」の可能性を見いだそうとした新中国の姿勢が窺えます。
 
 「日本と中国の歴史を知り、そこから学ぶこと、いかなる偏見や既成観念にもとらわれず、みずからの眼をもって等身大の中国をみつめること」と筆者は結んでいます。気楽に読み通せる本ではありませんし、私も読み始めて1カ月くらいかかりました。しかし、中国近代の歴史を学ぶには好著だと思います。

「中国残留邦人」

井出孫六 岩波書店 740円 

 

 前書きに、1980年代に中国残留邦人(残留孤児・婦人)が身元調査の「訪日調査の会場で口をついて出る「私は誰ですか」という問いかけは現在形だ。彼ら彼女らの過去は歴史にならずに現在進行形で続いている。」と書かれています。この現在形であるということを忘れてはならないのです。

 この本は、満蒙開拓団が送り出されていった歴史から書き始められています。

 1928年の張作霖爆殺事件や1931年の満州事変にからんだ東宮鉄男がキーマンとなり、関東軍が中心となって対ソ連を意識した武装移民による満蒙開拓の計画が練られていったのです。1932年春の帝国議会に提案されようとした「満蒙開拓五カ年計画」は犬養内閣の高橋是清蔵相が「満蒙開拓団の予算など日本海に捨てるに等しい」と取り上げなかったのですが、軍部による五.一五事件で犬養毅はテロに倒れました。そして、張作霖爆殺事件の実行犯だった東宮鉄男大尉は、そのころ満州国軍政部顧問として「匪賊」を追って満州北部に入っていました。そのとき東宮は「北満に茫々たる未墾の沃野があり、しかもそれが農耕の適地であることを知ったとき、移民の宿望は鬱渤たる計画となって現れるのを禁じ得なかった」と伝記に記されているそうですが、彼の頭に満州開拓の構想が持ち上がったのです。東宮は意見書をまとめ、それを元に関東軍作戦参謀石原完爾の主導で第一次「満蒙開拓五カ年計画」がまとめられたのでした。

 5.15事件直後の1932年夏の臨時帝国議会はすでに判断停止状態であり、「試験移民」が開始されることになりました。第一次として423名の隊員が選ばれ、10月14日ハルピン経由でチャムスに到着したときには、全員に小銃が配られ、機関銃三丁、迫撃砲二門も与えられて武装開拓民として満州に姿をあらわしたのです。しかし、到着当日には現地農民に組織されたパルチザンの攻撃を受け、数日後には早くも吹雪がやってきました。その当時の団員はこう書き残しています。「「われわれは騙された。とんでもないところに来てしまった」というものが出て来たくらいである」と。

 実は、関東軍に代わってソ連との国境を守備するという役目を密かに負わされたのが開拓団だったのです。そして、先に武装した移民団が進駐したあとで、土地取得の交渉をするのが東宮方式というものでした。立退料として一人に5円が支払われ、私有地と認定された既耕地のみ一町歩当たり一円という法外に安い土地代が支払われて、中国の農民達は土地を強奪され追放されたのです。住まいは先住者の空き家に多少の手入れをして与えられましたが、戦後の引き揚げ者による「開拓は戦後引き揚げて浅間山麓ではじめて開墾の辛さを知ったよ」という証言もあります。開拓ではなく泥坊だったのです。

さらに、今度は2.26事件により、満州開拓に反対だった高橋是清も暗殺され、これを契機に、満州開拓計画がみるみる膨らんでいったのです。この事件直後の時期、東宮と満蒙開拓計画を進めた加藤完治は「満州移民を語る会」で、「戦争は大泥坊で、人殺しだから」と発言しています。そして、荒地の原野を切り開くものではないことを言外に伝えていたのです。

 五次にわたる試験移民の結果、最終的には広田内閣が7大国策のひとつとして「満州移民二十カ年百万戸移住計画」を決定しました。もうここでは「開拓」という言葉は使われていません。移民はそれまでの独身者から家族単位に転換され、農村恐慌にあえぐ農民に満州に渡れば一戸あたり二十町歩の田畑が待っているという勧誘がなされたのです。さらに、その国策に各市町村がどれだけ忠実に従っているかを示すために、競うように満州に送り込んでいったのです。複数の村単位で開拓団が組織され満州に送り出されていきました。

そして終戦。そこから始まる幾多の満蒙開拓団の苦難は、語るにはあまりに惨すぎる出来事だったため、いつしか封印されていくようになった訳ですが、語り尽くせない多くの悲劇が起こりました。関東軍は「満蒙開拓団」を予備兵力とみなし、後方への撤退方法や保護を全く検討していなかったため、ソ連国境地帯に送り込まれた村では帰国できた人が数パ−セントしかなかったところもあります。

 私たちが訪れた方正県付近でも、方正県付近で生き残った百数十人の区民が集団で自決した事件や、母親たちが子どもを抱いたまま機銃掃射を浴びて全員死亡するといった惨劇がありました。また方正の避難民収容所では、保安隊は管理から手を引くと宣告したため、12月31日、零下三十度の道を、寒さをしのぐ外套のないまま子どもたちを背負って出発した石坂さんは、結局、生後一年に満たない長男と中国人の庇護を受ける道を選んだという体験も紹介されています。弟と帰国したのは国交正常化から二十年たってからのことでした。後で触れますが、彼女は推されて国家賠償請求訴訟の長野県原告団の副団長となったのです。

 1945年8月14日ポツダム宣言受諾を決定した外務省は「居留民はできる限り現地に定着させる方針」をとりました。その当時満州には155万人の日本人がいたといわれています。そのうち敗戦当時の満蒙開拓団とその家族は約27万人といわれていますが、その人々は、次々自決に追い込まれ、餓えと寒さと発疹チフスの猛威で死者が続出していき、そしてソ連兵の略奪にあいながら必死に生きていたのです。

ここで驚くようなことが紹介されています。中国国民政府の蒋介石総統は8月 14日「暴をもって暴に報ゆるなかれ」と題して「われわれは、日本軍閥を敵とするが、日本人民を敵と認めない」という趣旨のメッセ−ジを重慶から外務省に送っていたそうなのです。しかし、外務省は動きませんでした。このとき特使が重慶に向かっていたら悲劇は防げたかもしれません。とにかく、外務省の無策とソ連軍の無関心によって避難民は放置されたのです。

外務省の状況認識の鈍磨と無策ぶりに呆れたGHQの指示により、引き揚げのための作業は外交に不向きな厚生省引揚援護局が担当することになり、そのことが一層多くの問題を生むことになってゆくのです。

 GHQは日本政府に対して「引き揚げに関する基本指令」を出し、日本への帰還と日本に留まっている諸外国人の各本国への帰還の道筋を明示する画期的な指令を出しました。そのため、1946年から1948年までで約104万人が帰国することができたのですが、朝鮮戦争や米ソ中の冷戦構造の影響もあって、引き揚げは一時中断を余儀なくされたのです。また、旧満州では国民軍と共産軍の内戦が激化し、その時期に帰国できなかった在留邦人も多かったのです。

 ただ、敗戦国日本政府の代表が、居留民の引き揚げにあたって過去の誤れる国策の非を中国の当事者に詫びる場面はなかったのです。そして居留民の嘗めた辛酸の労をねぎらう場面も。

 ようやく引き揚げが再開され、1953年から1958年の後期引き揚げでは民間団体が主導しました。しかし、吉田内閣は対中関係では冷淡と傍観と妨害で過ごし、さらに厚生省も帰国者から他の行方不明者についての聞き取り調査をしませんでした。1950年当時、厚生省は「若い婦女子」の取り残されていることを認識しながら、その氏名も場所も特定する調査もどう行動すべきか検討した形跡はないのです。

 さらに1957年、かって旧満州国産業次長として辣腕を振るい、東条内閣の商工相となり戦後A級戦犯となった岸信介が首相となりましたが、日本の首相として戦後はじめて東南アジア六カ国を歴訪した際も、大戦中の日本軍の侵略に対する真の謝罪を表明することはありませんでした。しかも、謝罪の最も中心となるべき中国に対しては敵意ともとれる発言ばかりを繰り返しました。そのため、1958年中国は「中日間の経済・文化交流を全て断絶することを決定した」という声明を発し、後期引き揚げも打ち切られることになったのです。岸政権の反中国政策の結果、相当数の婦人、孤児が中国東北部にまだ取り残されることとなったのです。

 1958年当時厚生省引き揚げ擁護局長は残留婦人残留孤児が約六千人存在することを認めながら、調査やアンケ−トなしに「実質的に中国人になった人が大部分」で「帰る希望を持っておられる方は非常に少ない」と言い切ってさえいるのです。残留婦人は「国際結婚」したとみなされ、それは「自己責任」とされて、祖国から見捨てられた婦人達の姿を、局長は想像できなかったのです。

 日中関係が断絶した後、「未帰還者特別措置法」が成立しました。最終情報から7年たって生存が確かめられない個人について、国が戦時死亡宣告をすることが可能になったのです。関係の途絶えた中国から、旧満州に取り残された婦人、孤児の多くは名前も特定されないままで、それらの人々の情報が入ってくるはずもなく、どんどん戸籍から抹消され墓標が建てられていったのです。岸信介による挑発的な反中国政策によって引き起こされた引き揚げの断絶は、残留邦人が取り残されたまま、日中国交回復までの14年間取り返しの付かない時間が無為に過ぎることになり、また、戸籍の抹消が帰国者にまた大きな問題となってゆくのです。

 政府の対応のまずさに怒った長野県在住の僧侶の山本慈昭さんが「日中友好手をつなぐ会」を結成し、帰国問題のため奔走します。その中で、山本さんは厚生省に要求に行くのですが、残留日本兵の横井庄一元軍曹や小野田寛郎少尉には億を超える救出費を出した厚生省援護局に、「中国残留邦人」の現地調査の予算はないと拒絶されたのです。

 田中内閣による日中国交回復後も、日本側は帰国者の受け入れについて方針が定まりませんでした。中国側からは「中国にいる日本人で妻や家族になっている人々の里帰りを全面的に支援したい」と周恩来は発言し、中国側では帰国希望者の調査まで行っていたのですが、日本政府の対応は冷たかったのです。ようやく、一時帰国が許されましたが、国は、残留婦人はすべて自己の意志による国際結婚したとして扱い、入国も出国も外国人として扱ったのです。さらに、一時帰国のための数ヶ月の滞在費は親族の責任に委ねられたため親族の負担は大きく、また中国で生んだ子どもや孫のことも含めて、政府は組織的に永住帰国の環境を整備する取り組みを全くしませんでした。一時帰国の残留婦人達は重い心のまま、また中国に帰国していったのです。

 「日中友好手をつなぐ会」は、1976年中国残留孤児250人を早急に里帰りさせ、日本で肉親を捜している人たちに面会させるしかないとの切迫した思いから、厚生省に旅費、滞在費として一億八千万を予算化するように要望しました。その予算額は小野田少尉一人の救出に要した費用とほぼ同額だったのすが、大蔵省は「一度死亡宣告がでている死人に調査費用は出せない」と厚生省の要求をにべもなくはねつけたという語り草が残されています。「戦時死亡宣告」が帰国に大きな障害となったのです。中国側からは「孤児の帰国に関しては、人道上および中日友好の観点から、今後も援助する」という連絡があるにもかかわらず。

 ようやく1981年に訪日調査がはじまりましたが、その時ですら、日本人孤児が帰国する場合に未成年の子女以外の帰国旅費は支給されませんでした。帰国しても、孤児の帰国問題を、孤児本人とこれを受け入れる親族の個人の問題とし、国の責任を回避する厚生省。一家離散の不安と養父母の不安も解決しないまま、帰国した残留邦人は中国に置き去りにされた家族の帰国費用捻出のために日本語修得の暇もないまま長時間労働に追いやられてゆくことになるのでした。このような事態を当時の中国の新聞が「日本は帰国者にとって幻滅の天国になっている」と報じています。その頃に、ボランティアの間では、帰国調査船が一艘でも出航していれば調査は一回ですむのにという声があがっていたそうです。

 訪日調査で身元が判明した残留孤児は喜んで中国に帰ることができましたが、身元不判明者はうなだれて帰るしかありませんでした。再度の日本帰国には身元保証人の旅費申請が必要になるからでした。しかし、中国政府が日本政府と交渉し、「孤児が希望する場合には在日親族の有無に拘わらず、その同伴する中国の家族とともに日本への永住を受け入れる」との約束を取り付けたのです。しかし、残留婦人については取り残されたままだったのです。

 1984年埼玉に「中国帰国孤児定着促進センター」がようやく開設されました。4カ月間で500時間のカリキュラムで、「初歩的な日常生活レベルの日本語と日本の生活習慣について集団的な研修が行われる」というものでした。しかし一体、その期間で日本語をどの程度身につけることができるでしょうか。そこでも、縦割り行政であり、きめ細かいケアは全くなされままだったのです。なんとそれ以前は、日本語のカセットテ−プが渡されるだけという期間すらあったのです。その4カ月の間にも帰国者は出入国の申請、帰化の申請、戸籍の作成などの手続きに追われたのです。

 国は中国残留邦人の悲劇について知らないふりをし、見捨て続けました。日本政府の対応の歴史、その非人道的な対応にはあきれるばかりです。多くの中国残留邦人は、帰国後は生活保護に頼らざるをえない状況に追い込まれていきます。その「生活保護」は呼び寄せた家族との同居を認めず、国は依然として「残留婦人」を自己の意志で残留し続けた者として「個人次元原則」「自己責任論」によって残留婦人の声を押さえ込み続けたのです。国際結婚とは名ばかりで、極限状態での選択肢のない同居としか言えないものだったのに、国は「自由意志」と見なしていたのです。2000年当時の日本帰国の中国残留孤児の生活保護受給率は六五%にも達しています。

 その中で「中国養父母謝恩の会」が結成されました。人権無視の生活保護のもとでは、養父母の墓参、病気見舞いにも行けない無念さがこの会の命名に込められているのです。養父母はおしなべて虐げられてきた貧農であって、だからこそ、その懐の広さに感謝の気持ちは尽きるつきることはないという気持ちが込められていたのです。

 「なぜわたしはこれほど長いこと帰国できなかったのか」「なぜ生活の大変な妹夫婦に身元引受人になってもらないと帰国もできなかったのか」という問いのなかから、「これは国の責任であり。国が戦後処理として対処すべき問題であるにもかかわらず、国は責任をとらず、個人に押しつけている。それが問題なのだ」と、残留婦人・残留孤児によって2002年、国家賠償請求の訴えが起こされました。

 訴えの内容は、㈰残留孤児を生んだ国の先行行為(旧満州の侵略行為、満州移民計画等)㈪敗戦後の引き揚げからも放置されたこと㈫国が多数の残留邦人の存在を意識しながら放置したこと㈬帰国に総合的な政策をとらなかったこと㈭帰国後の自立定住支援策が適切でなかったこと、でした。延べ15の地裁に訴訟が起こされ、帰国孤児2500名の87%が参加したのです。

 この一連の裁判の中で、唯一、神戸地裁で画期的な判決がでました。この本の巻末に掲載されています。読んでいて胸が熱くなるのを禁じ得ない判決です。「戦闘員でない一般の在満邦人を、無防備な状態に置いた政策は、自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策であったというほかはない。憲法の理念を国政のよりどころとしなければならない戦後の政府としては、可能な限り、無慈悲な政策によってもたらされた自国民の被害を救済すべき高度の政治的な責任を負うものと考えなければならい」として原告勝訴の判決を下したのです。

 しかし、他の地裁では原告の請求は全て退けられました。特に影響力の大きい東京地裁判決では「日本語もまったくできず、日本の文化や生活習慣にも慣れない帰国者及びその家族が一挙に大量に入国することになれば、かえって帰国者とその家族が日本社会に円滑に定着することが困難になり、国内で混乱と激しい批判の生じる恐れもあった」という、一体何処を向いているのか不可解な判決には怒りを感じます。

 残留孤児の多くは中国人養父母の手で命を救われ、中国名をつけられ、幼時のかすかな思い出や生死の境をさまよった体験は中国語に置き換えられていきました。残留婦人は日本語を忘れないため、人のいないところで日本語の歌を一生懸命歌ったそうです。残留孤児の中国人妻は「(残留孤児だった)夫が耐えてきた孤独と苦悩は、わたしの寂しさなど比べものなりません」と涙を浮かべて話しています。(引用しながら私も泣きました・・・)

ようやく、2007年「改正中国残留邦人支援法」が成立して、ほんの少しだけ前進したようにみえます。それは残留邦人の60年の辛酸を救い得るものではありません。せめて必要なときに中国にも行けるような生涯給付金が必要だと著者は書いています。

 まだ、苦しみは現在形なのです。(崔さんのことを思い出さずにはいられません)

 

「我的中国」

リ−ビ英雄 岩波書店 2300

 この本は直接満州に触れた内容ではありません。アメリカで生まれ、中国で年少期を過ごし、現在日本で暮らしながら日本語の小説や評論を書いている著者の中国紀行です。
 中国の景色にではなく、音や匂いそして話し声や北京語や広東語の響きに耳を澄ませて敏感に反応していきます。そして中国を旅しながら、日本語で考え、北京語で話し、英語で会話する自分はいったい何処に帰属するのかと問いながら。

古い路地、スラムのような通りにどんどん入って行き、そこに住む人の会話に耳を傾け、話しかけられたりしながらも、道が分からなくなって途方に暮れる状況を楽しんでいます。外国人の自分に浴びせられる好奇や憎悪のこもった様々な視線を絶えず感じながら歩み続けるのです。後ろから「ローウェイ(外国人)」と声をにします。自ら好んでそのスリリングな緊張感を執拗に追求しているようにしか見えません。
 著者は、ことばと聴覚を頼りに、中国を感じ取ろうとしているように見えます。音とことばに鋭敏に反応し、自分の心の中でもそれを反響させていくのです。観光旅行ではない。まさに私的な「我的」中国紀行です。料理の話も景色はあまり出てきません。心の中を、賢治で言うなら心象風景を記述する散文詩のようなノンフィクション作品で、このような作品もたまらなく好きです。

 

「イ−ハ−ト−ブと満州国」 

宮下隆二 PHP研究所 1500円 

 

 宮沢賢治と満州国で主導的な役割を果たした石原完爾をつなぐもの、それは二人とも法華経を布教する田中智学の国柱会の熱心な、いや熱狂的な会員だったことです。二人は法華経の教えに帰依し、仏のもとに真実平和で平等に生きる世界の実現を違う形でめざしたのです。日蓮は法華経こそが真実の教えであり世界を救うものとの確信し、国全体が法華経の世界に変えようとして生きました。

   

 その流れをくんで、宮澤賢治は理想の世界でドリ−ムランドとしてのイーハトーブを空想し、石原は現実の世界として、日本の生命線だった満州に本気で「五族協和の王道楽土」の宗教的な理想郷の実現を夢見たという好対象な人生を送ったのです。

 石原完爾は山形県鶴岡出身で、彼の「最終戦争論」では日蓮の預言を元に、来るべき東西両文明による最終戦争後に永久平和の世界が到来すると述べています。その最終戦争に勝利した後の法華経の全世界布教を夢見て、彼は軍事研究を行ったのです。事実、彼が満州事変を画策し、事実3ケ月で満州を制覇したことが、軍事的な天才と評価される所以ですが、そのことが実は、日本陸軍に過度のむことになって楽観を生中国侵攻への道を進めることにもつながった面もありました。

 

 昭和恐慌の国内問題の解決をはかりながら、満州にユ−トピアを構想し、理想を理想にとどめず国家改造を具体化しようとした活動家としての石原完爾。非常に危険な香りがする思想家で怪しい魅力に満ちた人物として描かれています。人物としては市川房枝さんが絶賛していて、また、彼は戦後、「最大の戦犯は無差別空襲によって非戦闘員を大量虐殺したアメリカ大統領のトル−マンだ」と発言しています。

 

 田中稚学が天皇制と法華経主義を巧みな理論で融合したことが戦後批判されていますが、彼の主導した国柱会の文化芸術的活動を賢治が、政治や事業的な面を完爾が受け持った面があります。法華経の全世界伝道という高い理想を掲げ、自分の信じるところを愚直に貫き、理想郷を夢見た思想家としての二人の人生には、日蓮に源流を発しながらも、同じ思想から別な方向に流れ、そのベクトルは交わることは無かったのです。しかし、賢治にも狂気に繋がる闇の部分があり、完爾にも多くの人を引きつける理想の光があったと著者は書いています。

 また、宗教家としての光をあてた、優れた賢治論としても読めます。賢治ファンなら必読です。


「ハルピンからの手紙 日本は中国でなにをしたか3」

早乙女勝元編 草の根出版会 2200円

 

 東京大空襲の語り部として活躍している著者が、ハルピンから長春そして撫順へと巡る旅を手紙形式で書いています。我々と同じ場所を巡りながら、我々と同じ視線で書いているのですうっと理解できます。

 

 ハルピンでは731部隊を取り上げています。731部隊の主要メンバ−が戦後日本で要職に就き、国立大学の医学部長だったり国立防予防衛生研究所員になったりしていますが、早乙女さんに同行した通訳の中国人が 「この人達は人間的に、どんなけじめをつけたのでしょうか」と早乙女さんに問い、さらに「日本人はいい加減というか無責任というか」と続けて思案顔に沈黙したそうです。

 日本人は寛容なのか?戦犯の岸信介まで総理になって・・・と早乙女さんは日本の戦後を問い続けます。

 また、731部隊が証拠隠滅のため建物を破壊して去った直後に、ハルピン市内でペスト菌によると思われる死者が100人以上もでたということです。また別の報告では2万3千人がペストで死んだというものもあるそうです。チチハルなどでの毒ガスや731部隊の細菌といい日本軍が残してきたものはあまりにもひどいモノばかりです。

 

確かUさんがハルピンの東北烈士記念館に展示されていた抗日ゲリラとして戦った趙一曼さんについてもっと知りたいと言っていましたが、この本のなかで、趙さんが遺書として息子に宛てた手紙の全文が掲載されています。「お母さんは、たくさんの言葉で、あなたに教えることはできなかったけれど。私の生きてきた道すじそのものが、あなたへのささやかな贈り物なのですよ」など少しだけ引用していても涙が出そうになります。あと「八女投江」として、抗日の戦いの中で弾丸を撃ちつくして降伏するよりはと激流に身を投じて死んだ八人の女性の名前が紹介されています。記念館に顕彰されていた一人ひとりの様々な烈士を思い出します。 

「中学生の満州敗戦日記」

今井和也著 岩波書店 590円

 

 終戦日をはさんで、小学生から中学生の間をハルピンで暮らしていた著者の体験記です。回想は満蒙開拓団への支援の集団生活からはじまり、敗戦後ハルピンに留まざるをえない状況のなか、1年2ヶ月の間家族で必死に生き延びて日本に帰国するまでの厳しい日々の記録です。

 

 しかし単なる記録本ではなく、軍隊は国民を守るためのものではなかったという苦々しい記憶や、日ソ不可侵条約は結んでいても一応独立国であった満州とは不可侵条約を結んでいないとして、ソ連は満州侵攻を条約違反ではないと主張していたことをはじめ、約100冊近くの参考文献を読んだ著者による、満州問題を非常に読みやすくそして深く説明してくれる好著です。

 

 撫順の奇跡にも関連しますが、中国共産党の八路軍には三大規律と八項注意というものがあって、その中に 大衆のものは針一本、糸一本とるな(三大規律のひとつ)捕虜を虐待しない(八項注意のひとつ)というものがあり、ハルピンに最初に侵攻してきたソ連軍が略奪を欲しいままにしていたのに対し、次にやってきた八路軍は、なんと借用書を書いて机と椅子を借りていき、そして返却してくれたそうです。

 

 安重根についても、今でも韓国で人気があり、その分伊藤博文は韓国の初代統監を務めて韓国支配の元凶として今でも恨まれている状況で、日本が千円札紙幣の肖像に使用したことを韓国の人は許せないと考えているそうです。

そのほか教えられることが多くて読んでみてくださいとしか言えないのですが、最後に第一次世界大戦の後の1928年に「パリ不戦条約」が結ばれ、それには「国家の政策の手段として戦争を放棄する」という条項があり、それを日本国憲法第9条が受け継いでいるということも紹介されていて、ジュニア向きの本ですが、実に内容の濃い本です。

 

「大連と中国・東北歴史散歩」 

日経BP社 2,100

 

 中国東北地方の各都市を満遍なく写真で紹介している本で、この地方の通史の解説も充実しています。写真が本文より多くて写真集としても楽しめます。この本によれば、長春はアジアでは最初に、しかも戦前に水洗トイレ設置を決めていた都市だったことを知りました。またいち早く大連市ではセントラル・ヒーティングが採用されるなど同時代の日本より進んでいたことがわかります。長白山の風景も楽しめます。

 

「観光コースでない満州」

 高文研 1,800円 


「日本の中国侵略の現場を歩いて、克服さるべき歴史を考えたルポ」と本の帯に紹介されています。写真は少ないのですが、私たちが訪れた場所がほとんど出てきて、その解説編のように読めます。この本により、方正県の日本人公墓にあった「麻山地区日本人公墓」はソ連軍に追いつめられた開拓民が4000名集団自決し、「麻山事件」と呼ばれていることを知りました。他にもたくさんの知識を得られます。

 

 

「中国東北地方を訪ねて」

 文芸社1000円

 

香川県の学校の先生だった人による大連から瀋陽、長春、そしてハルピンまで中国人と一緒に庶民レベルの視線で旅行した記録で、中国版の弥次喜多道中記のような面白さです。デパートでも30分ぐらい粘って服を値切って買いものする話など、さすが中国人という話が一杯です