水稲王 藤原長作さんと中国方正県 岩手沢内村(現西和賀町)

以前、岩手支部ブログに掲載された記事を転載しました。

 

 

中国の人々から「水稲王」と慕われた「藤原長作」

逆境を糧に「米づくり」に生きた男

黒竜江省方正県栄誉公民賞を授与した「藤原長作」氏 

 

 

 


 2008年1月の偽満州国平和をさぐる旅:岩手」の旅行団は、方正県の「日本人公墓」を墓参しました。ハルピンからジャムスに向かう高速道路の中間あたりのインターを降りると、雪原に区画整理された水田のあとが広がっているのに気がつきました。そのときは「この寒冷地でも稲作が行われているんだ」程度のしか感じませんでした。インターを降りた目的は、かつてこの方正の地で多くの満蒙開拓団の人たちが命を落とし、それに対して中国政府は「開拓団の人たちも戦争の犠牲者」として公費をつかって立派な墓を建立してくれた事実を知り、その公墓を訪れたいと思ったからでした。

 

 日本人公墓を墓参した後、隣接する小さな公園とそこに建つ資料館のようなものを訪れたとき「あっ、ここが藤原さんが稲作指導をされた所だったんだ!」と初めて知ったのです。インターを降りたとき目にした広大な水田の光景の意味が分かったのです。

 

 藤原長作さんは、私たちと同じ岩手県の沢内村出身で、昭和55年からこの旧満州の地で「寒冷地での稲作指導」をされ、大きな成果を挙げて中国の人々から慕われたという話は聞きかじり程度に知っていたのですが、まさに、この地だったことに自分の立ちの無知を恥じると共に湧き上がるような感動を感じました。

 

 帰国後、受け継ぐ会岩手支部は「藤原長作を学ぶ」学習会を開きました。以下は、そのとき学んだことをまとめたものです。

 

辛苦の耕作8年、農民の増収1億円

~水稲王 藤原長作の記~


 建国 40 周年記念式の直前、「水稲王」藤原長作の手元に 1 枚の赤表紙に金字の入った栄誉証書が届けられた。国務院副秘書長劉忠徳は中国政府を代表して「あなたが中国に貢献きれたことに感謝する」と語った。

 何のとりえもない実冷の地黒竜江省方正県は、彼の畑地育苗による疎植法を採用したことによって大きく様変わりした。藤原は、黒竜江省全体の水稲栽培面積を667haにし、収量を倍増させて、農民 1 人当りの収入も 9 倍に向上させたのである。所得増によって、農民の住宅はカヤぶき屋根からレンガづくりに改築きれ、二階建ての家も作られるようになった。黒竜江省はこの数年、藤原の先進裁培法を普及することによって、農民の収入を 1 億円も増加させた。 1983 12 月、方正県人民代表大会常務委員会は、藤原に「方正県栄誉公民」の称号を贈った。その時、藤原は「私が中国にきたのは.お金のためではない。中日友好のためであり、みんなが白米を食べられるようにしたいから来たのだ 」と語った。

 1989  8  27 日、国家科学技術委員会は、藤原方式を評価して「水稲畑地育苗疎植技術普及会議」を開催した。 9  3 日の中央テレビ局は、この会議の模様を大きく報じた。中国北方の稲作は、藤原長作によって新たな 1 べージが開かれ、中国の農業技術者は彼の技術に追いつこうと懸命になった。それからというもの日本の「水稲王」は、中国全土にその名をとどろかせた。しかし、藤原長作は、素朴を本分とし、衣食住は簡素にして稲づくりだけで満足していた。
記者「あなたはどうして報酬を受け取らないのか」
藤原「私は年をとったし、子供たちも結婚した。金をもらってどうするのか。金儲けのためなら中国
には来ない。私は稲づくりに喜びを感じており、それで満足している」
記者「あなたはどのくらい中国に滞在するのか」
藤原「私の願いは中国の方正県に骨を埋めることだ。私は普通の日本農民だが、中国の方正県で有名になった。私は方正県を熱愛しており、生涯ここにとどまることが願いだ」
何とも素朴で、感動に満ちた「水稲王」であった。

 

中国国家外国専局発行の「国際人材交流]誌より(抜粋)

 

中国方正県「中日友好園林」
中国方正県「中日友好園林」

 この中に、藤原長作氏の記念碑が建立されている。

 ※方正日本人公墓もこの公園内にある。

黒龍江省から栄誉公民証を贈られた藤原さん(写真:前列右)


後列左が公民証を持参した黒龍江省の役人の方

<藤原長作の年譜>

生年月日 大正元年 12  13 日。


本籍 岩手県和賀郡沢内村大字川舟第 1 地割 22 番地。


学歴 大正 11  3  31 日、沢内村立川舟尋常高等小学校卒業。

 

<表彰歴と足跡>

 

1956年(昭和 31  2  14 日)

米作日本一表彰全国競作大会岩手県増産躍進賞

 農林大臣 河野一郎


 米作日本一表彰会長 村山長挙


 岩手県知事 阿部千一


 岩手県農協中央会長 佐藤 公


 

1956年(昭和 31  2  21 日)
 

米作日本-表彰全国競作大会東北ブロック増産躍進賞
  

 農林大臣 河野一郎


 米作日木表彰会長 村山長挙


 全国農協中央会長 荷見 安


 中央技術解剖委員長 福家 豊


 

1956年(昭和 31  12  18 日)


米作日本一競作大会ブロァク賞授賞顕彰状

 神宮大宮司 佐木行忠


 伊勢神宮奉賛会長 佐藤尚武


 

1957年(昭和 32  2  21 日)
 

米作日本一表彰全国競作大会岩手県増産躍進賞


 農林大臣 井出一大郎


 米作日本一表彰会長 村山長挙


 岩手県知事 阿部千一


 岩手県農協中央会長 佐藤公一


 

1957年(昭和 32  9  1 日)


冷害地低収地帯稲作改善感謝状

 沢内村長 深澤晟雄

 

1957年(昭和 32  11  1 日)
 

農業振興感謝状

 沢内村長 深澤晟雄


 

1961年(昭和 36  3  8 日)

農業日本一表彰岩手県大会米作 5 位表彰

 岩手県知事 阿部千一

 

1972年(昭和 47  2  8日)

稲作生産性向上及び酪農経営拡大等表彰

 湯本ロータリクラブ会長 太田祖電

 

1973年(昭和 48  10  30 日)

沢内農業振興農業経営安定の表彰


 沢内村長 太田祖電

 

1977年(昭和529 2 日)

農業共済事業推進農業災害保証法施行 30 年表彰

 岩手県農業共済組台連合会長 渡辺長純

 

1979 年(昭和54年)

 日中友好協会の組織した中国農業視察団に参加して、初めて中国に渡る。主に中国の中、南部地方
を視察。

 

1980 年(昭和55年)

 日中友好協会の組織した黒竜江省農業視察団に参加して、方正県を訪問。技術交流座談会で技術指
導を申し出る。


1981 年(昭和 56 年)春~秋

 黒竜江省科学技術交流センターの招請を受け、黒竜江省方正県で水稲疎植栽培技術を伝授。直播田
 対比で 93 . 6 %の増産。

 

1982 年(昭和 57 年)春~秋

 黒竜江省方正県で実験田を拡大。単位面積当たり前年対比 30kg の増産。

 

1983 年(昭和 58 年)

 8 月黒竜江省方正県で稲作技術指導。

 

1983年(昭和581010日)

中華人民共和国黒竜江省方正県栄誉公民賞授与

 黒竜江省方正県人民代表者大会常任委員会

 

1984 年(昭和 59 年)

 8 月黒竜江省方正県で稲作技術指導。

 藤原式稲作、黒竜紅省で 67  ha に拡大。

 

1984 年(昭和59 9 1日)

中華人民共和国黒竜江省科学技術委員会献奨授与

 黒竜江省人民政府省長 陳 雷

 

1986 年(昭和 60 年)

 7 月~ 8 月黒竜江省で稲作技術指導。

 藤原式稲作、黒竜江省で 140  haに延安、山西省に
も拡大し、全般を指導。


1989 年(平成元年)

 4 月~ 10 月黒竜江省方正県を中心に中国各地で、農業技術指導。


1989年(平成元年10 1 日)

中華人民共和国成立40 周年記念特別栄誉証書授与

 中華人民共和国国家外国専家局

 

1989年(平成元年 11  21 日)

村政100周年記念村政功労特別表彰

 沢内村長 太田祖電

 

1990  9 月~ 10 

太田祖電村長と共に中国政府から国慶節( 10  1 日)に招かれる。

 

1990年(平成 2 514日)

県勢功労者表彰 
   

 岩手県知事 中村 直

 

1990年(平成2 9  27 日)

中華人民共和国国際協力賞(農業奨章)授与

 中華人民共和国農業部部長

 

1998  8 

藤原長作氏逝去(満 85 歳)

 

2000  7 月


 故人となられた藤原・有馬両氏の遺志に沿って日本人公墓に分骨のため、関係者 10 人によって訪
中団を編成。

 方正県の日本人公墓に分骨参詣。

「藤原公園」に建立された藤原長作氏の記念碑

中国方正県「方正日本人公墓」
中国方正県「方正日本人公墓」

 中国の公費によって建立。周恩来総理の中国の寛大政策によって文化大革命の破壊を乗りこえました。

 

 今もなお大切に中国人の管理人によってきれいに管理されています。