撫順の奇蹟とは?

管理所の中庭の殉難者謝罪碑の前で
管理所の中庭の殉難者謝罪碑の前で

「撫順の奇蹟」と

 

 

 「撫順戦犯管理所」については、教科書にも取り上げられていません。ですから、その名前すら聞いたことがないという人が少なくありません。まして、この管理所であった事実を「撫順の奇蹟」と呼ばれていることなどはなおさらです。

今回の旅に参加した日本の中学生たちが一番訪れてみたいと願ったのは「撫順戦犯管理所」でした。

 なぜ中学生たちがそう強く願ったのかを知ってもらうためにも、まず、この管理所で「いつ」「どんなことがあったのか」を知る必要があります。

 ここに取り上げるのは、撫順戦犯管理所であったことの一部だけですが、その概要をとりあげてみます。

 

1 撫順戦犯管理所の沿革

 

 一九三六年に日本軍が、抗日烈士の人たちを拘禁するための監獄として建設。当時は「撫順監獄」と呼ばれていた。

 

◇一九四五年、日本の敗戦後、国民党政府により「遼寧省第四監獄」に改名。

 

◇一九四八年、撫順解放後、東北人民政府により「遼寧省第三監獄」となる。

 

◇一九五〇年、それまで一部の日本人戦犯は、ソ連極東シベリアの捕虜収容所に監禁されていた。

 

 そこでの生活は重労働と寒さ、わずかの食料で過酷なものだった。    

 その後、中国政府とソ連の協議で、その一部を中国に移送し、中国で国際軍事裁判の審判を受けさせることになる。

 

 七月に「撫順戦犯管理所」と改名し、ソ連からこの管理所に移された日本人戦犯は九六九人、中国国内から移された一三人を加えて、合計九八二人の日本人戦犯が収容される。

 

      内訳は、

      軍系統が六六七人、

      憲兵系統が一一六人、

      特務警察系統が一五五人、

      行政士官四四人。

 

 軍の階級別で見ると将官クラスが三五人、佐官クラス、尉官クラス八二二人である。他に、偽満州国関係、蒋介石関係の戦犯を合わせると全部で一三〇〇人が収容された。

 

◇一九五五年、名称は「中国人民解放軍瀋陽軍区戦犯管理所」と改名。

 

◇一九五六年六月、瀋陽特別軍事法廷で四五人に八年から二〇年の懲役(死刑・無期懲役判決なし。この刑期にはシベリア・撫順の収容年数を含む。また、特赦もあり昭和三四年までには全員釈放、帰国)、残りの一〇一六名は起訴免除で釈放。昭和三一年に全員帰国。

 

      ◇一九五九年から一九七五年の間に、偽満州国関係、蒋介石関係の戦犯も全員特赦を受けて釈放される。

 

◇一九八六年、「中国撫順戦犯管理所」と改名し、戦争犯罪者が人間性復活を遂げた「撫順の奇蹟」の地として国内外に公開され、現在に至る。

 

  第二次世界大戦の戦犯を連合国が裁いた三九の軍事法廷で、一人の死刑判決も出さず一人の無期懲役も出さずに全員釈放されたのは、瀋陽国際軍事裁判だけでした。

 

 

2 どんな戦犯が収容されていたのか

 

 瀋陽軍事法廷で有罪の宣告を受けた四五人のうち、主だった戦犯の人たちを上げると、

・武部六蔵 

管理所の最高級戦犯、関東局総長、

日本企画院次長、満州国国務院総長などを歴任。

 

・斉藤美夫

 

関東軍憲兵司令部部長、軍隊警察憲兵特務機関の先頭指揮。
・田井久二郎

三江省興山警察署署長、熱河省警察庁特務課など、特務関係。

 

・三宅秀也

熱河警務課課長、奉天省警務庁長など。


・古海忠之

満州国国務院総務庁主計など。毒殺、奴隷化、中国の財富の略奪政策の策定など。

 

・鈴木啓久

一一七師団中将師団長。

 

・藤田 茂

五九師団中将師団長。


・榊原秀夫 

七三一部隊代一六二支部長。

細菌班として中国人などを虐殺。

 

<陳謝と訂正>

 これまで本ホームページ上記欄に記載されておりました 佐々木到一氏 の情報について誤りがあったため削除致しました。

 尚,佐々木到一氏は,1956年の瀋陽軍事法廷の前年に当たる1955年5月30日に撫順戦犯管理所にてお亡くなりになられていました。よって,上記欄に有罪を受けた「45人の戦犯」とした当方の記述は誤っておりました。

 ここに心から陳謝し,訂正します。

 

 

3 罪を(にく)んで人を(にく)まず。

           罪を戒め人を救う!

 

 

 この管理所の運営方針は、中国政府から出されています。その基本は「罪を恨んで人を恨まず、人を戒め人を救う」です。

具体的には次の三つの方針です。

 

①   戦犯たちを一人たりとも死なせてはならない。

②   戦犯を侮辱したり、暴力をふるったりしてはならない

③   戦犯たちが自ら罪を認められるようにしなければならない

 

更に、一人ひとりの「人格を保障し」、日本人の「生活習慣を尊重し」、「健康に留意」した生活を保障するという人道主義に徹した方針が出されています。

 世には「本音と建て前」という見方があります。「五族協和・王道楽土」とは満州国建国のスローガンですが、その実はどうだったのかはみなさん知ってのとおりです。

 では、ここ撫順戦犯管理所の運営の実態はどうだったのでしょうか。

 

 

4 戦犯たちはどんな管理所生活を送ったのか

 

 

 戦犯だった人たちは、最初、朝起きると皇居の方角に手を合わせる人が少なくありませんでした。自分が「戦犯」扱いされることに納得せず、捕虜として扱うように要求したり、管理所の所員の人たちが人道的に対応するのは、大和民族を崇拝する表れと思い込む者すらいたと言います。

 中には、自分が中国で行った罪行のことを思えば、どうせ自分は死刑にされるという思いから、破れかぶれの言動をし続ける者も少なくなかったといいます。

 

 オイ、俺たちは日本人だ!米の飯を食わせろ

 

 戦犯たちの食事は、はじめは高粱飯でしたが、戦犯の人たちは「俺たちは日本人だ。こんな物食えるか!これは馬の餌だ!米の飯を食わせろ!」とののしりました。それに対して炊事班の人たちは「みなさんの意見は、必ず上司に伝えます」と応えているのですが、内心は苦しかったことは容易にうかがえます。当時の中国の人たちの暮らしは、建国初期だったこともあり物資も乏しく、高粱飯でさえありつけないほど苦しい状態でした。 

 「うどんを食べさせろ」「餅が食いたい」と、言いたい放題の戦犯の人たちに、管理所は、米を手に入れて、戦犯たちに日本の餅のつくり方を聞いて、試験に試験を重ねてそれらの要求に応えていくのです。

 炊事班副班長の韓さんは、小さいときから大人になるまでから殴る、蹴る、の非人間的扱いをされてきた人で、管理所に来たころは、自分の仕事に納得がいかず苦しんだといいます。しかし、中国政府の人道と寛大の精神を学び、自分の想いを恥じて、苦しい条件の中で日本戦犯においしい料理をつくるため、寒い冬でも遅くまでがんばって、ついに左手の指が凍傷になってしまったといいます。

 自分たちは日に二度「高粱飯」を食べ、戦犯の人たちには日に三度の「米の飯」を食べさせる。並みの精神ではできることではなかったと思うのです。

 

 ◇湯船の中での涙

 

二〇〇五年に訪れたとき、大きな浴場の所を案内してくれた周さんの話です。

「ここに、おもしろい話があるんですよ。この風呂場をつくるために働いていた管理所の職員が、戦犯の人たちに『お前たちの入る風呂場だから、一緒に手伝えよ』と声をかけたそうです。戦犯の人たちは、自分たちが中国人にやってきたことを思えば、この穴の中に自分たちも埋められるだろうと思ったというんです。ところが、実際に出来上がった風呂に入れてもらえたとき涙が出てとまらなかったという話ですよ」

 入所当初の戦犯たちは、自分が中国で犯した犯罪のことを思えば、ここで死刑にされることを予測し、自暴自棄な言動をとる者が少なくありませんでした。冬を暖かく過ごさせるためにボイラー室の建設をしていると「死刑部屋」をつくっていると疑ったり、健康診断や治療をしようとすると「細菌実験」をされると恐れたりしたのです。

 

 ペニシリンまで投与

 

鈴木良雄は、坐骨神経痛のため医務室で針やお灸の治療を受けていました。担当医師は、一週間が過ぎても効果が現われないのを見て、「これは単純な腰痛ではない」と感じ、再検査をしたところ、梅毒症のために針や灸の効果が無いと判断されます。鈴木はそのことを医師から聞かされて赤面したといいます。

 その後、医師は鈴木に毎日白い薬を注射するので、「この薬は何か」と聞くと、「これはペニシリンと言う最近アメリカで発見された特効薬だ」と聞かされ、それまでかたくなに人間性回復教育に抵抗してきたことを徐々に改めるようになっていったといいます。当時中国では、ペニシリン投与はよほどの人にしか使われることなかったのです。

 管理所の健康管理は徹底したもので、長期療養を必要とする戦犯の人たちには療養生活を保障する病院まで準備されるのです。毎月の身体測定や内科検診、その記録簿や個人カルテが保存されていて、現在でも展示されています。

 最高級戦犯とされる武部六蔵は、収容されて二年ほどのとき脳溢血で寝たきりとなります。その武部には医者と看護婦が二四時間ついての管理所生活です。献身的な看護のもと、武部は床ずれひとつなかったという話です。

 

 ◇「収容所」とは思えない館内

 

 この管理所の設備のすべてが「人道」で貫かれています。風呂場もさることながら、床屋、医務室、運動場、洗濯場、食堂、寝起きする場所には厚手の毛布、面会室、どれをとっても日本人が中国人にしてきたことと比べれば月とスッポンです。

 絵の好きな人には画材が、音楽の好きな人には楽器が与えられています。管理所では、演劇大会、運動会なども楽しげに行われていた様子を写した写真がたくさん残されています。面会も自由に認められ、家族が尋ねてきたときは家族部屋まで提供されていました。家族団らんの食事の写真などからは囚人としての暗さなどは全く感じられません。

 所内に、熊谷清さんという方が描いた二枚の油絵が飾られていました。一つは囲碁をして遊んでいる人たちの側で、手で何かを造っている絵です。もう一枚は、一人の跪く人の方に手を置いて何かを語りかけている絵です。

 話を聞いてみると、前の絵は、配られた白米の米粒をこねて碁石を造っている絵でした。日本軍の食事は、班毎に配給されたものを残すと次から分量が減らされるので、あまるほど配られた白米をおにぎりにしたり、碁石をつくったり、時には便所へ捨てたりしたというのです。

 二枚目の絵は、そのことを見つかって殴られるとばかり思っていたら、所員の人から「このお米は、農家の人が苦労しながら育てたものです。粗末にしては、農家の人に申し訳ないでしょう」とやさしく諭されて、貧しい農家だった自分を思い、思わず涙が出て座り込んでしまった絵だというのです。

 

◇だれが、おらあに字を教えてくれたのか

 

 撫順戦犯管理所とはどういうところだったのかを知る資料として、ネット「季刊 中帰連」から一つの資料を借りてここに掲載してみます。それは、松本国三さんという方の書かれたものです。松本さんは、中国帰還者連絡会員で、一九一八年島根県生まれ。第三九師団二三二連隊兵長だった方です。

 

おらあ、今一日一日明るくなり希望を持つことができるようになった。昔、おらぁなんにもわからなかった。借金の二百円証文を読むこともできず、幾らと書いてあるかもわからず、おらあの親爺の太い右ひとさし指で押した指(指紋)の跡が証文に残り、ただヘイヘイと、親子で頭をさげるよりほかに道はなかった。(中略)

 おらあは勉強したかった。そんで当局に要求をした。そうしたら、当局ではおらあに多くの本を買ってくれた。帳面も鉛筆もインキも。ペンも万年筆まで買ってくれた。そしてイロハから習い始めた。(中略)

 おらあが、勉強をするのに管理所当局と部屋の人たちが、数知れない世話をしてくれました。それとほんとうに親兄弟のように優しゅうしてくれ、おらあに当局は五年間労働もさせず、またおらあに何の心配なく生活をあたえてくれ、自由に欲しい本を買ってくれました。だからおらあは、心配もせず字をならうことができたのであります。そうして、はじめて「借金」という字もわかり、証文という字もわかり、それがまたどんなもんであったかがわかるようになった。おらあは生まれてはじめて、おらあの字で書いた手紙を日本の妻んとこへ出すことができました。日本の軍隊にいたときも、書きてえと思ったが、それができんかった。

遠く家内のもんと離れておっても、おらあの手で、おらあの気持を書いて手紙を出すことができんかった。おらあは、寂しゅうてたまらんかった。家から来ても読むこともできんかった。いまおらあは、おらあの手で思ったことを書くことができるようになった。生まれてはじめて、おれの手で書いた手紙を、中国から家に出した。家内の者はみんな涙を流して喜んでくれた。伜から送って来た手紙も、妻の気持もわかるようになった。おらあは嬉しゅうてしょうがない。おらあは、中国の人たちと話をすると、涙が出てたまらん。(中略)

 おらあ、いま何が人間のやることかがわかるようになった。これもみな、おらあが殺した中国の人びとの家族の方々から教えられ、もう二度とおらあ戦争は真っ平ご免だ。そして中国のような、こんなよい世の中を作るために精出さねばならんことを知った。おらあほんとうに悪いことをした。おらあはほんとうに済まんことをした。いまおらあが自分の考えを、白い紙に書けるようになったことを考えると、おらあ何と言ってええか、言い現わしようのねえ、涙がこみあげて来てしょうがねえ。おらあ戦争をせん世の中がどんなええもんかがわかった。(中略)おらあ、もっともっと字をおぼえ勉強をしよう。中国人民にもらったこの万年筆も、昔は見たことも使ったこともありゃしなかった。おらあこの万年筆で、何もかもわかるようになった。おらあこの万年筆を、子供のうちから漕いだ舟のロやカイのように愛し、一生懸命勉強しよう。おらあいまほんとうに楽しい日々を送り、うれしゅうてたまらん。(以下略)

 

この松本国三さんの記録一つ見ても、撫順戦犯管理所の運営が、勝者が敗者の罪を暴いて仇を取るためのものでなかったことがはっきり見て取れます。

こうした徹底した「人道主義」に徹した待遇が、やがて、戦犯たちのものの見方・考え方を変えていくことになっていくのです。

 

5 管理所の職員たちは

 

撫順戦犯管理所の直接的運営を担当した「東北行政委員会」が最も重要視したのは、直接戦犯たちと向き合う管理所の幹部と職員をどのように集めるかでした。中国東北部は一四年間も日本に支配され、日本軍と聞いただけで憤りがこみ上げてきて顔も見たくないという人が殆どです。中国政府の「罪を恨んで人を恨まず」の精神で、戦争を二度と起こさないような思想に生まれ変らせる指導を貫徹できる者を探すことは容易なことではありませんでした。

行政委員会は、各地の公安部、司法部、衛生部から、この精神を忠実に実行してくれそうな人材を一〇〇名選びます。しかし、中国共産党の命令に忠実に従おうとする気持ちはあっても、積年の恨みを晴らすために自分は選ばれたのだと考えていた職員も少なくなかったのです。

 管理所の所員の人たちは、実際、どんな思いで戦犯たちと向き合ったのでしょうか。

 初代の所長の孫さんは、日本軍に家を焼かれ母方の兄妹が、日本軍の犬にかみ殺されたことで抗日闘争に身を投じた人だといいます。他にもたくさんのひどい仕打ちを受けた人たちがおられたようです。日本軍の「掃討」を避けるため腰まで氷水に浸かっていたため、凍傷で右足が不自由になった人。八人の家族のうち自分以外は全員目の前で虐殺され、自分も九死に一生を得た人。ほとんどが日本軍から直接ひどい扱いをされた人たちだったといいます。

 日本戦犯の教育係を務め、後に管理所の所長にもなった「金源」さんの話によれば、職員の人たちは、「戦争に負けた日本人よりも、自分たちの待遇が劣っている。こんな所で働きたくない。転勤させてほしい」という人が続出したといいます。

 中には、自分の家族を目の前で陵辱、殺害した本人とこの管理所で遭遇し、思わずその戦犯に襲いかかるのですが、職員に止められた話も聞きました。その後、その職員を囲んで中国政府の方針の正しさを学びあう学習会が展開されていくのです。

 「今はその意味は理解できないかもしれないが、二〇年後、三〇年後にこの方針の正しさが証明されるだろう。ここで仇をとればお前の気は済むかもしれないが、それで多くの人たちが平和に安心して暮らせる世の中が実現できるか、よく考えて見なさい」と、個人的感情を乗り越えて、戦争のない世の中を構築していくには何が大事なのかという学習が展開されていったのです。

 

6 戦犯たちに変化が見られるようになったのは

 

 こうした待遇と、どこまでも人道的に対応する職員の人たちを見ているうちに、戦犯たちの中に「自分のほうが何か間違っているのではないか」と考える人が出ていきます。そこまでには、三年の年月が必要だったのです。一口で三年と言っても、管理所の人たちから見れば気の遠くなるような時の流れだったことは容易に理解できます。

 戦犯の人たちが、自分を見つめなおすきっかけとなったものは、管理所の人道的な処遇もあったことは事実でしょうが、所内で自由に認められた学習にあったことも深くかかわっていると思われます。

 所内でいろいろな学習が粘り強く展開されていったようです。放送、図書館、グループを組んでの学習会・討論会・・・、これらが命令の形ではなく自主的に行うことができる環境がありました。日本にいては読むことさえ禁止されていた本なども自由に読むことができたのです。

 

 ◇綴る活動が

 

 非常に興味深かったのは、ある戦犯が「自分が兵隊になったころから中国に渡って戦場で体験したこと」について綴ったことがきっかけで、戦犯たちに自分の体験を綴る活動が広がっていったのです。これは、中国の人たちからの命令で始まったのではありません。戦犯たちの間で起きた運動です。

 最初は、「犯罪のことなど書いて大丈夫か」という心配があったようですが、「被害にあった人々の気持ちも考えてみるように」という職員の人たちからの勧めもあって広がりを見せていきます。

 最初は、あったことの事実を羅列する記録がほとんどだったようですが、同じ部隊にいた人もいて「あんたの記録には事実が抜けている」と指摘しあう場面もあり、まず事実を正面から残らず見つめること、そこからそのときの自分の気持ち、被害を及ぼした他者の気持ちへと考え合う運動へと発展していくのです。

 

 ◇「認罪」と呼ぶ運動とは

 

 今まで読んだこともない本を自由に読めたこと、互いに事実を包み隠さず見つめあう共同の話し合いの場などが大きく影響したと思われるのですが、一人また一人、「自分は天皇にだまされてきたのではないか」「自分は、アジアの人たちにとんでもないひどいことをしてきたのではないか」という自覚が芽生えていきます。つまり、自分の罪を自ら語りだす「認罪」と呼ばれる行動が始まっていったのです。

元特務機関の永冨博道さんは「軍国主義青年だった私が、人間として目覚めていくことは並大抵の苦労ではなかった。仲間の人たちや所員の人たちから、繰り返し、繰り返し教え導かれたからこそ、今の自分になれた。私はそのことを忘れることはできない」と語っています。

また、元満州国警察だった岩崎賢吉さんは「私は、三度手記を書き直した。最初は、書かないと乗り遅れるという不純な気持ちで書いた。二度目には中国の人たちに申し訳ないという気持ちで書いた。だが、その中には『命令でやったこと』という意識があり、自分だけが悪いのではないという意識が混じっていた。三度目に書くときは・・・、そこまでには七、八ヶ月、もっとかかったかもしれないが、心底申し訳ないという思いがあって、殺された中国の人たちのことを思えば、『自分はここで八つ裂きにされても仕方がない』、本当にそう思えるようになっていた」と語っています。

この「認罪」行動の中で、自分の侵した罪の重みに耐えかねて、肥溜めに投身自殺を図ろうとした戦犯の人もいて、所員の方がその中に飛び込んで助け出した話も聞きました。

戦犯たちは一斉に人間性を取戻したわけではありません。自分の罪行と向き合い、人間性に目覚め始めた者へ「お前、こんな態度を続けてみろ。日本に帰るとき玄界灘に投げ込んでやる」と脅されて精神障害になった者もいました。

すべての者が手記を書き上げるまでにさらに三年の時の流れが必要だったのです。

 

◇坦白(たんぱい)と呼ばれた罪行告白

 

自分の罪行と向き合い手記を書き上げる活動を、坦白と呼ばれる全体の前で自分の罪を告白する取り組みが大きく前進させていきます。

第三九師団二三二連隊第一大隊中隊長の宮崎弘が最初の坦白を行いました。涙ながらに告白する宮崎の姿が全体に大きな影響を与えていきます。中でも、中枢部で偽満州国を操ってきた古海忠之の坦白は、頑固に口を閉ざしてきた佐官、将官クラスの者たちへ強い影響を与えていきます。

ある戦犯が、みんなの前で自分の罪を告白した話の一部です。

 

「一九三四年末、私たち第一大隊は河北省当陽県の白羊寺村を襲いました。私は部下を率いて村に入り、東のはずれで逃げ遅れた老人、婦女や幼児たちを殺しました。私は、婦女を刺殺するときみんなの前で『服を脱げ』と命じました。裸にした後、みんなで輪姦し、その後腹を裂いて殺し、部下と一緒に笑い転げ・・・・」

「江南作戦のとき、少年をとらえました。この少年が大事そうに何粒かの炒り豆を持っていましたが、その豆を私にくれました。私は、その手を払いのけて、その少年を地面へ叩きつけ、軍刀で首を叩き切りました。あのときの少年の顔が忘れられません・・・」

 

 こうして一〇一六人全員が、自分の罪行と向き合い、その中で人間性を取戻していったのです。

 

 ここ撫順戦犯管理所でくりひろげられたこと、それは、戦犯たちだけの苦悩ではなく、職員の人たちもまた学習を繰り返しながら「共に創り上げた偉業」であり、このことは、まさに人類史上まれなる「奇蹟」と呼ぶにふさわしいことではなかったかと思うのです。

 

7 瀋陽国際軍事裁判

 

 中国側は、一九五四年三月から二年半をかけて全国一二省に調査員を派遣して調査と証言採集活動が行っています。審査閲覧した資料八万件、証人の聞き取り二六七〇〇件、調査・証言の記録が四三万ページに及ぶ、徹底した調査が行われています。

 この調査事実と、戦犯たちが自ら書き上げた「手記」をもとに 一九五六年六月に瀋陽国際軍事法廷が始まります。

 この裁判で起訴された者は、特に罪が重いと判断された四五名だけです。残りの一〇一七名は「起訴免除」で、即帰国が認められます。

 この裁判で中国政府は、四五名の被告に弁護人を付けようとしたのに、戦犯の人たちは、「私たちの犯行は全世界の知るところであり、弁護の必要がありません。法廷が我々に、中国人への謝罪の機会さえ与えていただければそれで満足です」と言ったといいます。でも、管理教育担当者の説得で弁護人を付けて審理がはじまりました。

 中国中央新聞電影制片廠に残されている映像記録を見れば、審議は一人ひとり丁寧に行われ、日本戦犯の人たちの多くは、証言台に立つ証人へ、多くの傍聴者へ、「自分は死をもって報いるしかない」と土下座して心からの謝罪をしている姿が映し出されています。

 判決は、犯行の重大な戦犯四五名に八年から二〇年の禁固刑が言い渡されます。死刑、無期懲役の判決は一人も無かったのです。(この判決には、シベリヤ抑留の五年と撫順戦犯管理所での六年の計一一年が含まれた判決で、二〇年の禁固刑も実質は九年の刑ということです)

聞くところによれば、裁定は一度に決したのではなく、七〇数名の戦犯に、あまりの罪の重大性から死刑判決が考えられたようですが、中国政府は「一人の死刑判決も出さない」「死刑にしても平和は来ない。今そのことが理解できないとしても、二〇年後、三〇年後に、国の方針の正しさがきっと分かるときが来る」と、再考を要求します。そのやり取りは、二度とも三度とも言われています。結果として、一人の死刑判決も無期懲役も無く、瀋陽国際軍事裁判は結審したのです。

 その後、一九五六年六月二一日、第一回起訴免除者三三五名釈放。七月一五日、第二回起訴免除者三二八名釈放。八月二一日、三五四名第三次起訴免除者釈放。最終的には、一九六四年四月九日までに、懲役の判決を受けた全ての戦犯が刑期終了前に釈放され、天津港から帰国を果たしています。

 他の地域で行われた軍事裁判では、「罪を裁いて処罰する」ことを目的としていたのに対し、ここ瀋陽で行われた軍事裁判は、処罰することに目的があったのでないことは明らかです。

 

8 中国帰還者連絡会とは、

  「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」とは

 

日本政府は、「撫順の奇蹟」で「人間性を復活」して帰国した戦犯の人たちに、政府と赤十字から一万ずつの二万円と、衣服として旧日本軍の軍服を支給しています(なぜ軍服なのか?)

      しかし、朝日新聞をはじめ多くのマスコミが「中国共産党から洗脳された人たち」との一斉攻撃を始めました。河北新報は「体のアカは落とせても、心のアカは落とせない」と書きたてています。帰国した戦犯の中には「中共のスパイ」呼ばわりまでされて、特高警察並みの密偵が配置された話もあります。ですから、ろくな職にも就けず、帰国後の生活に苦労を重ねられたことは想像に難くありません。

 この方たちは、「中国帰還者連絡会」(略称:中帰連)という組織をつくり、「偽満州国で何があったのか」「平和の尊さ、平和を実現していくには何が大事か」ということを、子どもたちや日本の人たちに広げていこうと活動を始めるのです。しかし、日本政府も国民の眼も冷たく、依然として「意図的に日本を辱める行動を繰り返す裏切り者」呼ばわりは続いているのです。

 中帰連の人たちは何度となく中国を訪れ、管理所の職員の人たちと抱き合いながら平和のために共にがんばろうと励ましあってきているのです。そして、周恩来氏が語った「今、理解できなくても、二〇年、三〇年後には・・・・」の意味が、私たちにもずっしりと伝わってくるのです。

 この「中帰連」も、すすむ老齢化の中で二〇〇二年に解散されるのですが、この灯を消してはならないと、解散と同時に若い人たちが「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」を立ち上げ、「撫順の奇蹟」を後世に生かす運動が若い世代へと受け継がれています。