宮古空襲の地を訪ねる (2012年7月)

 宮古市は,戦時中,1945年8月9日と8月10日の2回の空襲を受けていたということは良く知られています。

 しかし,実は第1回目の宮古空襲が1945年7月14日に行われていたことが,地元の研究家・伊藤幸男さんの手によって明らかにされました。

 8才の時の体験として「1回目の空襲は梅雨空のし合って行われたはず」ということを記憶されていたわけですが,後年,そのことを尋ねても誰の記憶にも残っていなかったそうです。この事実を解明しようとしたことが,宮古空襲の研究の出発点とお聞きしました。

 

 伊藤さんは,ご自身の研究成果を以下の冊子に,とても詳細にまとめられています。

 

「宮古空襲 その全貌(完結版)」  著者 伊藤幸男

 

以下は,伊藤さんからお聞きしたことをもとに作成しました。

 

浄土が浜大橋から見た太平洋
浄土が浜大橋から見た太平洋

 宮古空襲を行った米軍艦載機は,日本の対空砲火を避けるために蛸の浜から低空飛行で侵入。今は,浄土ヶ浜大橋という大きな橋が架かっていますが,もちろん当時は存在していません。つまり,この橋よりも低い高さで侵入して来たことになります。

浄土ヶ浜大橋から見えるラサの巨大煙突
浄土ヶ浜大橋から見えるラサの巨大煙突

 180°反対を向き,浄土ヶ浜大橋から陸側を見ると,鍬ヶ崎が見えます。遠くには旧ラサ工業の巨大な煙突も見えます。今でも宮古のランドマークですが,当時もきっと目立っていたことでしょう。航空機からは格好の目印となっていたに違いありません。蛸の浜から侵入した艦載機はこちらの方向へ飛んでいったそうです。

ホテル近江屋さんの裏にある小山
ホテル近江屋さんの裏にある小山

 この写真は,震災で被災した傷跡も生々しいホテル近江屋さんの裏で撮影したものです。余談ですが,こちらのホテルには,2011年11月に行われた「中国江蘇省演芸集団 被災者支援チャリティーコンサート」の「被災地バスツアー」に参加された皆さんが宿泊して頂きました。

 

 この小山の中に当時は対空砲火を備えていたそうです。在郷軍人会によって組織されていました。宮古空襲の際には,応戦したようですが,このことによって,ものすごい砲火を浴びたそうです。今は,当時をしのばせるものは残っていないとのことです。

鍬ヶ崎の日立浜
鍬ヶ崎の日立浜

 宮古市鍬が崎地区にある日立浜には,広い敷地に耐火煉瓦の工場があったそうです。ここで作られた耐火煉瓦は,釜石に運ばれ,釜石製鉄所の炉に使われていたそうです。宮古空襲では,この煉瓦工場が襲われています。

 

空襲による弾痕が残る鉄橋
空襲による弾痕が残る鉄橋

 宮古空襲の象徴的存在として,長年,平和学習のフィールドワークでは欠かせなかった「被弾した鉄橋」。

 

 2011年3月11日の震災により,この部分が流されました。伊藤さんを中心として保存運動が起こり,今では仮置き場として市民文化会館(国道45号脇,ホテル近江屋さんの向かい側)に置かれています。

 流されてしまったのは残念でしたが,おかげで弾痕の跡が間近に見られるようになりました。近くで見ると迫力があります。

穴の中央に見える白丸は反対側の穴 貫通したものと思われます
穴の中央に見える白丸は反対側の穴 貫通したものと思われます
鉄橋は,ホテル近江屋さんの反対側にあります
鉄橋は,ホテル近江屋さんの反対側にあります
津波で流された「被弾鉄橋」の橋脚部分
津波で流された「被弾鉄橋」の橋脚部分